シルクロードに関する多彩なトピックを、貴重書アーカイブの資料を織り交ぜつつ、北京大学・考古文博学院の林梅村教授を中心とするシルクロード研究者に紹介していただきます。

トゥルファンのマニ教遺跡

馬健 (北京大学考古文博学院博士課程)

1902~1914年、ドイツの軍需王フリードリヒ・クルップ(Friedrich Krupp)とドイツ皇帝の資金援助のもとに、ベルリン民俗学博物館はインド事物部主任グリュンヴェーデルとル・コックに率いられた調査隊を4回派遣し、トゥルファンなどの地で調査を行い、多くの古城址、仏教寺院および石窟寺を発掘した。ドイツ・トゥルファン探検隊の最も重要な収穫には仏教以外に、マニ教の遺物がある[1]。先人のマニ教に対する理解は東ローマ帝国のキリスト教文献とアラブの作家アル・ナディーム(al-Nadīm)とアル・ビールーニー(al-Bīrūnī)の簡略な記述のみに限られていたが、トゥルファンで大量のマニ教文献の写本、信徒の書簡、賛美歌、祈祷書とマニ教寺院遺跡などが発見され、西アジアから中央アジアまで広範に広がっていたこの中世宗教に対する私達の知識を大きく広げた。このマニ教の秘宝は国際言語学、歴史学、考古学、美術史学、宗教学界の専門家の関心を引き、マニ教研究を国際的専門研究にまで昇格させた。

マニ教の創始者であるマニ(Mani、216-274)は、216年4月14日にパルティアのバビロン省の貴族家庭に生まれた。12歳と24歳の時に光明王国の使者――ツイン神(Twin)の啓示を受け、苦難に満ちた布教の生涯に踏み出した。最初、マニはたった3人の供をつれて四方を周遊し、伝道を行った。彼らはペルシア帝国東北部、インドなどで布教し、多くの信者を得た。ササン朝ペルシアの二人目の国王シャープール1世(Shāpūr I、242-272在位)は噂を聞きつけてマニを引見した。彼はマニに対して非常に寛容で、自分の戴冠式(242年)でマニ教が合法的宗教であると宣言するだけではなく、マニと信者がササン朝ペルシア帝国内で布教することを許可した。また、彼はマニを身辺に置きともに周遊した。273年、シャープール1世は崩御[2]。 継任者のホルミズド1世(Hormizd、272-273)も依然としてマニに友好的であったが、しかしよいことは長続きせず、ホルミズド1世はたったの一年で兄のバハラーム1世(Bahram I、273-276)に王権を奪われてしまった。ゾロアスター教の大司祭カルティール(Kardēr)の扇動のもと、276年1月19日にバハラーム1世はマニをBet Lapatの王宮に呼び返し、マニと彼の信徒達が戦争もできず、役に立たないと厳しく叱責し、マニを投獄した。26日間後、マニは責め苦に耐えられず獄中で没した。享年60歳[3]

マニの死後、バハラーム1世は直ちにペルシア国内のマニ教勢力を鎮圧するよう命令を下し、多くのマニ教徒は東へ向かい中央アジアに逃亡した。それ以後、マニ教は中央アジアのメルブ(Merv)、ホラズムなどのソグド地域で急速に発展し、一部のマニ教士はソグド商人に従ってシルクロード沿いに東へ向かい新疆、敦煌、長安、洛陽に入り、これによりマニ教は中国国内でも根を下ろし、明代まで続いた。

(図 1) (図 2) (図 3) (図 4)
(図 5 ) (図 6) (図 7) (図 8)

トゥルファン地区で発見されたマニ教の遺物は(写真(図 )スタインによる高昌故城平面図(図 2))、交河故城(写真(図 3)スタインによる交河故城平面図(図 4))、ベゼクリク(写真(図 5)スタインによるベゼクリク平面図(図 6))、勝金口、吐峪溝(トヨク・トユク)(写真(図 7)スタインによるトヨク平面図(図 8))などの遺跡に分布し、主に寺院建築と壁画、細密画、旗幡、絹画、写本の5種類に分けることができる。

一、寺院

マニ教の寺院は信徒達が祈祷、懺悔、礼拝、ベーマ祭(Bema Festival)などの活動を行う場所である。トゥルファンのマニ教寺院建築は主に二つに分けられる。ひとつは地上寺院、主に高昌故城K遺跡(図 9)α遺跡(図 10)がある。二つ目は石窟寺で、ベゼクリク、勝金口、吐峪溝に分布する。

(図 9) (図 10) (図 11)

高昌故城K遺跡は中央に内部に3つの大広間をもつ長方形建築(高昌故城K遺跡平面図(図 11))を造り、マニ教徒たちの集会と礼拝の場所となっており、ル・コックによって「Fastenhallen(大斎庁)」と称された[4]。大広間の西壁に壁画(IB6918)が残存しており、1群の男性選良民がマニをとり巻く場面(?)を表現している。彼らはすべて白服を着け白冠をかぶり、マニは最も前面に位置して、頭にはいちばん豪華に飾られた礼帽をかぶり、頭の後に日月光明を象徴する頭光(新疆トゥルファン出土のマニと弟子達の壁画断片(図 12))。をつける。白衣白冠はマニ教の典型的な教服で、彼らはそれが神聖かつ純潔だと考えていた。K遺跡の北部と東部にはそれぞれ長方形ドームがあり、どちらからも大量のマニ教写本、絹画などが出土した。

(図 12)

マニ教の石窟寺の構造には規則性があり、一般に5~7基の石窟でひと組み、つまり1つのマニ教寺院を構成する。寺院の中の異なる石窟は異なる機能を持ち、スタインが敦煌で発見したマニ教漢文経典『摩尼光仏教法儀略・寺宇儀第五』には、ひとつのマニ寺院には経典と図画を収蔵する経図堂、信徒達が修行を行い経典を講じる斎講堂、マニの肖像画が掛けられ信徒の礼拝と懺悔の場となる礼懺堂、信徒達に教義を教える教授堂、そして信徒と僧侶の休養に供する病僧堂があると書かれている。壁画と建物の構造から見て、規模が最大で、回廊式礼拝道をもつのが礼懺堂である。ベゼクリク9A、27A、34A、勝金口北寺3号石窟などの例がある。教授堂は規模が小さく、壁面に絵解き(教義を解説すること)に使用する壁画が描かれている。たとえばベゼクリク38洞(グリュンヴェーデルの25洞)のアーチにはマニ教徒が生命の樹を礼賛する情景が描かれている。マニ教では光明王国に3本の幹を持つ生命の樹があり、光明王国が世界の東、北、西の三方を統治していることを象徴すると説かれている(マニ教徒が光明王国の生命の樹を礼拝している図(図 13))。

(図 13)

斎講堂は通常方形の主室と三方の壁に作られた小部屋から構成される。主室のアーチに生命の樹と死亡の樹が絡み合うシーンを描き、光明と暗闇の闘争を象徴している。側壁には枝葉が生い茂り、多くの実をつけた宝樹を描いている。マニ教ではよく教団を善樹にたとえ、信徒をひとつひとつの果実にたとえる。主室正壁と側壁に開かれた小部屋は、マニ教の信徒達が修業する場所である。その他の構造の石窟にはあまり壁画はつくられず、壁はすべて白く塗られ、壁中央に簡単な赤い水平線を太く描く。一部の壁にはマニ教徒たちがパルティア文字、マニ文字、回鶻文字で祈祷文を書いている。

トゥルファン地区におけるマニ教寺院の建築活動は二つの時期に分けられ、まず唐西州期(640-850年)、ソグド人と回鶻人が出資して高昌故城K遺跡、α遺跡などの寺院を建設し、吐峪溝、ベゼクリクなどに20箇所余りの石窟を切り開いた。次に850-1000年、回鶻人は西のトゥルファンに移り高昌に都を定めて、ベゼクリク、勝金口の両地区にまた20数箇所の石窟を建造した。10世紀末、西州回鶻は仏教に改宗し、これらの石窟は閉鎖され続々と仏教石窟に改築された[5]

二、細密画

マニ教は典籍の装丁をきわめて重視し、優雅な書法で書き写され、同時に美しい挿絵を入れている。これがいわゆる「マニ教の細密画」である。最も有名なものは高昌α遺跡から出土した「ベーマ祭図(図 14)」で、現在ベルリンのインド美術博物館(MIK III4947)に所蔵されている。

(図 14)

ベーマ祭はマニ教の最も重要な宗教的祭日で、マニの殉教を記念して設立された。この祭りは毎年春に開催され、月末まで続く。期間中、教団は信徒を組織して賛美歌を歌い、30日にはベーマ祭礼が開催され、信徒達は壇上に空位の玉座を置いてマニの肖像画を掛ける。「ベーマ」とは「座」を意味する言葉である。画面の最上部に玉座を置き、マニを象徴する。玉座の左右両側には教団の重要な構成員が座し、等級の高低によって順次並んでいる。マニ教には厳格な階級制度があり、法師(master)、司教(episcopus)、長老(presbyter)、選良民(electi)、聴講者(auditores)という5つの等級に分けられる。玉座左側に座る一人のマニ教高僧は、ひげも髪も真っ白で、左手を挙げ、右手に杯を持っている。玉座正前に一列に並ぶ老年の僧侶は、最も上方の一人は金を嵌め込んだ経典をささげ持ち、前に深紅のテーブルを置き、日月の形の菓子と光輝く果物、メロン、葡萄を盛った三足の金盆を並べている、これはマニ教徒達が最も好む食品である。僧侶の法衣の上には摩尼文字で彼らの名前が書かれている。ベーマ祭はマニ教最大の祝日で、祝典では賛美歌や祈祷文を詠唱し、マニの殉難を記念し、またマニが最後の審判の日に再度降臨することを祈る。

(図 15)

高昌故城K遺跡の北側の建物の中から一枚の回鶻文字賛美歌の表紙(MIK III 6368)が出土し、これも典型的なマニ教の細密画であった。トゥルファンの別のマニ教絵画は一群のマニ教僧侶による写経の場面を直接あらわしており(白衣白冠のマニ教写経僧(図 15))、これらの僧侶は皆白衣白冠で、左手にペンを持ち、背後に光明王国を象徴する三幹樹が描かれる。中央の余白部分には黒文字で懺悔辞が書かれている。「……もし彼がでたらめな敵対法を信じるならば、もし彼が嫉妬する異教徒ならば、偽りの祈祷を行う人ならば、理解して知るために……,必ずしなければならない……」。

表紙の裏の中央には赤文字で「光明の中の真言、神の知恵、至甜の法……」とマニの教義を賛美している。下方の黒文字は回鶻王子の称号である。表紙最上部にはマニの楽師が聖楽を奏で神にささげる場面が描かれる。最前列の一人は楽団の指揮者で、赤い絨毯の上に跪いている。彼は演奏者の方を向いており、二番目の奏者は手に琵琶を持っている。

三、旗幡

(図 16)

高昌故城K遺跡からは美しいマニ教の旗幡も出土しているが、これらの旗幡は通常1種のイラクサ(Boehmeria)と亜麻繊維で織られている。その中の1枚(MIKIII6286)は体格のよい男性選良民を描き、伝統的な白い法衣を着て、金を埋め込んだ赤い縁取りの経書を捧げ、敬虔で気高い姿をあらわしている。彼の足もとには男女2人の聴講者が跪き、彼に敬意を払っている。旗幡の上方にはかしこまって座る白装束の人が描かれ、教団上層部の人物であろう。別の旗幡にはおっとりして美しい女性の選良民が描かれ、やはり1冊の経書をもささげ持ち、上方に赤い衣服の救い神が座り、その後に赤い光背があらわれている(男性選良民(左)・女性選良民(右)(図 16))。 これらの旗幡は大部分がマニ教教団に出資する貴族が入信するときに制作したものである。

四、絹画

絹画とは絹織物の上に描かれた作品で、高昌故城K遺跡、α遺跡から出土している。中でも最も面白いのはK遺跡の蔵書室回廊から発見された月宮をあらわした絹画である(月宮図(図 17))。

(図 17)

画面中央に金を塗った三日月を描き、上方の玉座に救世主イエスが座り、そばに立つ2人は合掌し、敬虔なまなざしで彼を見ている。画面下方両側にはそれぞれ人が立っており、背後には鈴なりの実をつけた木がある。月宮中の光明神で、恵明使と初人であろう。マニ教の教義では、この世の人間は死後に霊魂がイエスによって月宮に運ばれて浄化され、その中の光明の分子が解放され、それから更に日宮に送られ、最後に光明王国に戻ると説かれている。この絹画はイエスが月の船を操り、2つの救われた霊魂を乗せて日宮に向かう場面を表している。

五、写本

トゥルファンのマニ教写本は主に高昌故城K遺跡群の北部の建物と東部のいわゆる「蔵書室」から出土し、これらの写本はマニ文字、中世ペルシャ文字、パルティア文字、ソグド文字、シリア文字、回鶻文字など多種の文字で書かれ、通常紙草あるいは絹の上に書かれている。マニ教経典、賛美歌、祈祷文と書簡などの内容がある。その中で最も有名なのはM470の中古ペルシャ文字断片で、これはマニ教経典『シャープーラカーン』(shābuhragān)である。

文献によればペルシア国王シャープール1世が242年にマニを引見した際、マニは『シャープーラカーン』を献上しており、本にはマニ教の教義が概述されている。1904-1905年、ル・コックは吐峪溝石窟群と交河故城でマニ教写本を発掘した。その中のTIII260は突厥ルーニー文字断片で、正面に光明の樹の下で跪き、両手を強く握る白装束の信者を描いている。裏面には黒と赤の文字で「……我が父マニ……」と書かれている。

現在、トゥルファンは依然としてマニ教に関する考古学的資料が最も豊富で最も集中する地区である。一世紀近くにわたる研究を経て、私達はすでにマニ教の経典、図像、言語と文字、寺院建築および教団組織に対してある程度の理解が進んでおり、学者達による研究の深化に従ってマニ教のベールは徐々に開かれている。

[2] G. Widengren, “Manichaeism and its Iranian Background” , The Cambridge History of Iran, vol.3 (2), New York: Cambridge University Press, pp. 966-990.
[3] W. B. Henning, “Mani's Last Journey,” BSOAS. X-4, 1942, pp. 941-953.
[5] 晁華山『尋覓淹没千年的東方摩尼寺(千年埋もれた東方マニ教寺院を尋ねて)』、『中国文化』、1993年8期、1-20頁。
2006年11月01日 発行
翻訳: 篠原 典生
編集: 大西 磨希子

目次

執筆者

1979年、陜西省西安市に生まれる。1997年、北京大学考古文博学院入学。2001年、学部卒業。2004年、修士課程卒業。修士論文のテーマは『紀元前8~3世紀のサヤン・アルタイーー中亜東部草原早期鉄器時代文化交流』。現在は匈奴考古学をテーマに北京大学考古文博学院の博士課程に在籍。 [ もっと詳しく... ]

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