シルクロードに関する多彩なトピックを、貴重書アーカイブの資料を織り交ぜつつ、北京大学・考古文博学院の林梅村教授を中心とするシルクロード研究者に紹介していただきます。

西域における景教芸術の発見

林梅村 (北京大学考古文博学院教授)

ソニア・ブスリグ(Szonja Buslig) (エトヴォシュ・ローランド大学講師)

唐代に景教と称されたキリスト教とは、シリアの人ネストリウス(Nestorius,386-451)を代表とするキリスト教ネストリウス派の呼び名である。この宗派はマリアを神の母と認めることに反対し、聖像崇拝や煉獄説などキリスト教の伝統的教義に反対した。西暦431年、小アジアのエフェソス公会議において、ローマのキリスト教廷によって異端とされ、ネストリウスとその支持者は追放された。しかし彼らはササン朝ペルシア王国に身を寄せ、498年に自分たちの教会を建て、セレウキア・クテシフォンに本部をかまえ、カルデアやアッシリア教会の名義で布教した。アッバス朝建国の後、景教の本部はバクダッドに移され隆盛を極めた。

5世紀、景教は中央アジアのアム川流域に伝わり、ソグド諸国は多くの教会を建てた。6世紀になり景教の宣教師はシルクロードをたどって北魏の首都洛陽に至った。『洛陽伽藍記』巻四・永明寺条に洛陽仏教の盛況を説き、「百国の沙門、三千余人。西域の遠き者、大秦国に至る。天地の尽きる西の端」と記している。ローマ帝国に仏教が伝わったことはなく、ここでいう大秦国の「沙門」とは洛陽の仏教寺院にいた景教宣教師のことであろう。『資治通鑑』巻一四七、梁武帝天監八年(509年)に「この時仏教は洛陽で流行し、沙門以外に西域から来るもの三千人余り。魏主はこのために永明寺千余間を建て、彼らを安堵する」という記述があり、これは大秦国から洛陽に至った三千人余りがすべて「沙門之外」であることを明言している[1]。もしそうであればこれはキリスト教が中国に入ったことを示す最も古い漢文資料ということになるだろう。この後、西域で布教していた景教宣教師は553年から554年の間に蚕をビザンツ帝国にもたらし、その後はじめてヨーロッパでシルク紡績が行われるようになった[2]

唐代以前、景教は中国では民間に知られているだけであったが、唐高宗の時に中国政府のお墨付きを得た。貞観九年(635)、ペルシア景教宣教師の阿羅本が長安で布教し、唐太宗に気に入られた。このキリスト教の教派は「景教」という中国名をつけられ、ゾロアスター教、マニ教と並び唐代の「三夷教」と称された。唐徳宗建中二年(781)に建てられた『大秦景教流行中国碑』によると、唐太宗の支持のもと、長安城にはじめての景教寺院「大秦寺」が建立され、阿羅本は「鎮国大法主」に封ぜられ、また諸州に景教教会を建てるよう詔勅が下され、景教は唐王朝に広まることになった。景教が長安城に伝わった当初は「波斯経教」と称され、その教会も「波斯寺」と呼ばれた。アラブ人がメソポタミア一帯を征服した後、ペルシア地域はだんだんとイスラム化した。これと区別するため、唐玄宗天宝四年(745)に景教は「大秦教」と改名した[3]。会昌五年(845)、唐武宗が廃仏運動を起こし、この宗教弾圧は景教、ゾロアスター教、マニ教など他の外来宗教にまで及んだ。この後、景教は中原から姿を消したが、遠く北方草原や西域で生き残った。

一、敦煌蔵経洞のキリスト画像

1907年、イギリス人スタイン(M.A. Stein)は敦煌千仏洞で調査を行った際、敦煌の王道士に銀五百両を賄賂として送り、蔵経洞(敦煌莫高窟第17洞)の古写本24箱と仏教美術品5箱を持ち帰った。これらの文物には仏教のみならず「大秦景教三威蒙度讃」(景教経典目録三十種と含む)など唐代の景教訳経と一枚のキリスト像絹画断片(敦煌蔵経洞出土キリスト画像(挿図 1))が含まれていた。故羽田亨京都大学教授は「敦煌から出た基督の画像かと思われる絹画の断片……敦煌地方で唐の画家が多分景教の司祭とか教徒とかの注文を受け、その指図によってか、または何かの参考材料によって画いたのであらうと思ふが、全体に写実的に画かれてある中にも、仏画がその基調として採り入れられてあることは争はれない。僅かにこれだけの資料では、この地方に於ける基督教美術の性質を論述することは出来ないが、高昌の壁画は波斯もしくはソグド地方から、その教義の伝播に伴うて伝へられたのが、まだ格別変化を示すに至らない間に画かれたものと見るべきであろうし、敦煌の基督画像(?)は、すでに唐の仏像画の様式がその上に加はつたものと見なければならぬ。」と考察し、また、この画像について「基督(?)画像。敦煌でスタイン氏の獲た絹本着色画の断片で、大英博物館の所蔵である。首飾とペルシヤ式の翼のついた王冠とに十字章をつけ、面貌をはじめ、すべて写実風に描かれてある。」と説明している[4]。ウィットフィールド(R. Whitefield)ロンドン大学教授はこの聖像を「景教人物図」とし、時代は8~9世紀とした[5]。我々の研究によればこのキリスト画像は多くの面でターク・イ・ブスターンのササン朝ペルシア神像彫刻を意図的に模倣している。両者はともに光背をもち、よく似た胸飾りをつけ、神像の基本的姿勢も非常に似通っている[6]。よって、このキリスト像の作者はササン朝ペルシアの芸術家であり、敦煌で発見された画像はササン朝ペルシア芸術様式を持ったキリスト像と言え、ペルシア景教宣教師阿羅本が長安にもたらした聖像を手本にした可能性もある。

(挿図 1)

『大秦景教流行中国碑』によると、貞観九年(635)に大秦国阿羅本を代表とする二十名がはるばる長安を訪れた。彼らは宰相房玄齢によって宮中に招かれ、持ってきた経書を蔵書楼で翻訳した。唐太宗李世民は阿羅本の翻訳した経典をいたく気に入り、貞観十二年(638)七月に詔を下し、阿羅本達のために長安城義寧坊に景教教会を建てた。その詔書には「道無常名、聖無常体。随方設教、密済群生。大秦国大徳阿羅本、遠将経像、来献上京。詳其教旨、玄妙無為。観其元宗、生成立要。詞無繁説、理有忘筌。済物利人、宜行天下。所司即於京師義寧坊、造大秦寺一所、度僧二十一人」[7]と述べられている。

『唐会要』巻四十九にもこの詔書が収録されているが、録文には異同がある。たとえば碑文の「大秦国大徳阿羅本」は「波斯僧阿羅本」に変えられている。『唐会要』巻四十九には「波斯経教、出自大秦、伝習爾来、久行中国、爰初建寺、因以為名,将欲示人、必修其本、其両京波斯寺宜改為大秦寺、天下諸府郡置之者、亦準此。」とある。これにより景教が唐に伝わったはじめには「波斯経教」と呼ばれていたことが知られる。ペルシアで流行していたイスラム教と区別するために「大秦景教」と改称されたが、阿羅本は波斯景教教徒と称されるべきであった。この部分の変更はあまり問題ないが、碑文にある「遠将経像」(李之藻『景教碑抄本』(挿図 2))を「遠将経教」と変えてしまったのでは文意が通らない。碑文にいう「経」とは景教の経典を指し、「像」とはキリスト教の聖像を指すからである。

(挿図 2)

景教では聖母マリアはイエスの肉体を育てただけであり、イエスに神性を与えるものではないとし、聖母マリアを礼拝の対象とすることに反対した。したがって阿羅本がペルシアから長安に将来した聖像はキリストの画像のみであり、一部の学者がいうように聖母像を含むものではない[8]。1897年、ロシアPerm州Grigorovskoe村で出土した景教芸術様式の塗金銀皿はサンクトペテルブルクのエルミタージュ博物館に収蔵されている。銀皿にはキリストの受難、埋葬と復活の物語が描かれ、エストランゲロ文字(Estrangelo)で注釈がつけられており、物語の説明がされている。キリストの復活を画いた図像は非常に特別で、聖母マリア像がみられない。キリスト教芸術ではこの物語には普通聖母マリアが出てくるのである[9]。よって、ペルシア景教宣教師阿羅本が長安にもたらした聖像はキリストの像であり、敦煌蔵経洞から出土したペルシア芸術様式キリスト像の断片は、阿羅本がペルシアから長安に将来した聖像を手本としたものであると推測できる。

二、高昌古城郊外出土の景教壁画

太平興国七年(982)、北宋の使者王延徳が高昌回鶻王国(現在の新疆トルファン)を訪れ、「摩尼寺、波斯僧、おのおのその法を持つ。仏教経典にいう外道である」という現地の様子を見た。景教は唐代には「波斯教」と呼ばれ、唐代に中国を訪れた景浄や阿羅本は「波斯僧」と呼ばれた。「(太平興国)九年(984)五月三日、西州回鶻と波斯外道朝貢す」[10]。いわゆる「波斯僧」と「波斯外道」とはみな高昌回鶻王国の波斯景教徒を言ったものである。

20世紀はじめ、ドイツ・トルファン探検隊が高昌古城郊外の東壁北端と小仏塔群の間に遺棄された景教教会を発見した(高昌古城郊外の景教廃寺位置図(挿図 3)[11])。現在は三つの建物が残り、長さは約20mで幅約7mである(高昌城郊外景教教会平面図(挿図 4))。

(挿図 3) (挿図 4)

この教会は改築を重ねており、ル・コック(A. von Le Coq)は下層の壁画から景教絵画の断片を発見した。東室の北壁と東壁、そして西室に多く描かれている。惜しいことにひどく破壊を受けており、ル・コックはそのうちの比較的状態のよい二幅の壁画をはがし取り、現在はベルリンのインド美術館に収蔵されている。小さい方は高さ43cm、幅21cmで赤い服をまとい懺悔を行う女性を描いている(高昌城郊外景教教会壁画(挿図 5))。

もう一枚はやや大きく幅約70cm、高さ約63cm。この壁画の下半分は手に棕櫚の枝を持った一群の信徒が牧師を取り囲む図で、上半分には手に十字架を持った騎士像が描かれていたが、しかし現在は馬蹄部分が残るのみである(高昌城郊外景教教会出土壁画(挿図 6))。ル・コックはこの絵をキリスト教の司祭が洗礼を施している場面だと考えた。しかし羽田亨の考証によれば、この絵はキリスト教の祝日である聖枝祭(Palm Sunday)、すなわち復活祭の前の日曜日であり、ロバに乗ってエルサレムに入場するキリストを人々が迎える場面であるという[12]。もう一人の日本学者吉村大次郎は、この絵にあらわされた左側の大きな人物がキリストで、右側の三人の人物はそれぞれペテロ、ヨハネ、マグダラのマリアであるとした。

(挿図 5) (挿図 6)

この他に、ドイツ・トルファン探検隊は高昌古城東壁北端と小仏塔群の間(高昌景教教会付近)で仏画断片を収集しているが、その中に仏画ではない絹画の断片があり、上部にロバに乗り手に十字杖を持つキリスト(高昌景教教会付近で出土した絹画断片(挿図 7))と一人の女性信徒が画かれ、聖枝節を描いたものと思われる[13]。もしこの推測が間違っていなければ、この絵は景教教会の『聖枝節』壁画の欠損部にロバに乗ったキリストを補う証拠となるだろう。

(挿図 7)

1971から1972年にかけて、陝西省の考古学者は陝西省乾県乾陵の東南3kmの場所にある章懐太子墓の発掘を行い、墓道の東西両壁から外国使節を画いた大型壁画を発見した。唐王朝では冠婚葬祭の行事に外国の賓客を招き、また藩国君主の葬儀には、唐王朝からも使節団を派遣した。史書の記載によると、唐の皇帝の謁陵(墓参)時には「行事官及び宗室親五等、親三等以上並びに客使は陪位者として位に就」き、唐の皇帝とともに墓参した[14]。章懐太子墓壁画は外国使者の入朝謁陵と、長安城の外交機関である鴻臚寺官員が外国使節を接待する場面をいきいきと再現し、現在は「礼賓図」と称される[15]

章懐太子墓墓道東壁には靺鞨と新羅、東ローマの三人の外国使節が描かれている。東ローマは古く「拂林」と称され、漢文資料では『前涼禄』[16]に最も早くその名がみられる。「張軌時(255-314)、西胡致金胡餅(瓶)、皆拂菻作、奇状、並人高、二枚」。『魏書』巻五及び『北史』巻九十七では拂林は「普嵐」或いは「伏廬尼」と訳され、フランス東方学者ペリオ(P. Pelliot)は、ペルシア人かソグド人のローマ帝国に対する呼称FrōmあるいはFromīからきたものと考えた[17]。ローマ帝国東端はシリアに接しており、中国の史書ではシリアから来た景教宣教師も拂林人とされている。『礼賓図』壁画の外国使節は国のある方位によって配置され、西域の使者は墓道西壁、東アジアと南海諸国の使節は墓道東壁に描かれている。東ローマとシリアは西方にあたるのに、『礼賓図』で拂林の使者が東壁に描かれているのはなぜだろうか。それはこの拂林使者が海路を通って長安に来たからであり、したがって新羅、靺鞨など東方の使者とともに墓道東壁に描かれたのである。

(挿図 8)

章懐太子墓壁画の「拂林使者」について近年、執筆者の一人であるハンガリーのエトヴォシュ・ローランド大学のソニヤ博士は、大秦国(現在のシリア)ネストリウス派の代表者の可能性があるとする新説を発表している。[18]。章懐太子墓『礼賓図』の大秦国使者の服装はコーヒー色で、襟を折り返す特徴がある(高昌城郊外景教教会出土壁画(挿図 6))。これは高昌景教壁画の景教徒の服装と全く同じである(章懐太子墓壁画の拂林使者(挿図 8))。

   

(付記:挿図1・8は,北京大学考古文博学院博士課程の陳暁露氏による。ここに記して謝意を表する。)

[1] 林梅村「中国基督教史的黎明時代」(『西域文明』、北京、東方出版社、1995年)、448-451頁。
[2] L. Boulnois, La Route de la Soie, Paris: Arthaud, 1963.中国語訳は、耿昇訳『絲綢之路』(済南、山東画報出版社、2001年)、155-156頁。
[3] 『唐会要』巻四十九。
[4] 羽田亨『西域文明史概論・西域文化史』274-276頁(東洋文庫545、平凡社、1992年)。中国語訳は、耿世民訳『西域文明概論(外一種)』所収「西域文化史」(北京、中華書局、2005年)158-159頁。
[5] R. Whitefield, The Art of Central Asia: The Stein Collection in the British Museum, vol.1, Tokyo, 1982(ウイットフィールド・ロデリック著、上野アキ訳、『西域美術』巻一、東京、講談社、1982年), fig.75 and pl.21.
[6] ターク・イ・ブスターン(Taq-i Bustan)のササン朝ペルシア神像彫刻についてはK. Tanabe(田辺勝美), “A Study of the Sassanian Disk-Nimbus: Farrewell to Its Xvarnah Theory,” Bulletin of the Ancient Orient Museum, vol. VI, 1984, pl. XI.を参照。
[7] 李之藻『景教碑鈔本』(『天学初函』、杭州、明崇禎二年初刻本)。
[8] 張緒山「景教東漸及伝入中国的希臘-拝占庭文化」(『世界歴史』2004年第5期)。
[9] H.-J. Klimkeit著、林悟殊訳『達〓伽馬以前中亜和東亜的基督教』(台北、淑馨出版社、1995年、18頁。
[10] 『宋史』天竺伝。
[11] 挿図3はドイツ隊の高昌古城遺跡分布図をもとに作成。
[12] 羽田亨『西域文明史概論・西域文化史』(東洋文庫545、平凡社、1992年)。中国語訳は、耿世民訳『西域文明概論(外一種)』(北京、中華書局、2005年)。
[13] Albert Grünwedel, Buddhistische Kunst in Indien, Berlin, 1893, pp.339-340.
[14] 『新唐書』礼儀志。
[15] 陝西省博物館、乾県文教局『唐章懐太子墓発掘簡報』(『文物』1972年7期)p.13-25。『唐李賢墓壁画』、(北京、1974年)25頁。図版は張鴻修編『唐墓壁画集錦』(西安、陝西人民美術出版社、1991年)106頁。また、尹盛平主編『唐墓壁画真品選萃』(西安、陝西人民美術出版社)40-41頁。
[16] 『太平御覧』巻七五八。
[17] P. Pelliot, “Compte rendu, sur l’origine nom Foulim,” JA, 1914, pp. 497-500.
[18] 宋妮雅「章懐太子墓壁画所見“拂林”考」(上海博物館『周秦漢唐学術討論会論文』、2004年)。
2007年1月31日 发行
翻訳: 篠原 典生
編集: 大西 磨希子

目次

執筆者

1956年4月生。本籍は広州、北京で生まれ育つ。70年代後期、史学家馬雍門下に三年間私淑する。1977年、北京大学歴史系に入学、考古学を専攻。卒業後は中国文物研究所に配属され、助理研究員、副研究員を歴任。その間、サンスクリット学者蒋忠新氏にサンスクリット語を学び、シルクロード考古学と中央アジア死言語、とくにガンダーラ語研究の道を開く。1993年、アメリカのサンスクリット学者リチャード ソロモン教授の招きにより、ワシントン大学に赴き、中央アジア死文字研究に従事。1994年、北京大学考古学系に奉職。現在、北京大学考古文博学院教授、博士生導師。2002年、日本学術振興会の招きにより、京都・佛教大学の客員研究員として日本で学術交流を行う。2001年~2004年、香港城市大学客員教授として三度香港に赴き、中外文化交流考古を講ずる。2004年、ニューヨーク・メトロポリタン博物館とプリンストン大学考古芸術学部の招きにより、アメリカで学術講演を行う。 [ もっと詳しく... ]

執筆者

1974年11月29日、ハンガリーのブタペストに生まれる。1997年、ハンガリーのエトヴォシュ・ローランド大学(Eötvos Lorand University, Hungary)入学。2002年、考古学と漢学修士の学位取得。卒業後は同校外国語学院の博士課程にすすみ、論文のテーマは『14―16世紀中国と東南アジア諸国の経済関係』。2006年に博士学位取得の後、中国語の講師として学校に残る。2005年、北京大学で一年間学び、林梅村教授の指導のもと鄭和に関する考古学資料の研究を行った。 [ もっと詳しく... ]

索引

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