貴重書で綴るシルクロード

シルクロードの文化遺産の数々へ、貴重書に残された図像や写真と共に、ご案内いたします。

シルクロードの全体像:時間・空間・主題の観点から

デジタル空間のシルクロード

「貴重書で綴るシルクロード」は、これまで9回にわたってシルクロードに関するテーマを設定し、ストーリーに沿ってデジタルアーカイブのコンテンツを紹介してきた(右の目次を参照)。今回は最終回として、これまでに取り上げてきたテーマを一望することで、シルクロードの全体像を捉えてみたい。

そこで、「時間」「空間」「主題」という三つの観点を設定し、これらの観点から9個のテーマを束ねるこする。「時間」は、数千年にわたるシルクロードの歴史を、古代から近代までたどっていく。「空間」は、東西数千キロメートルに広がるシルクロードの空間を、主要ルートに沿ってたどっていく。そして「主題」は、シルクロードを代表するいくつかの主題に関して、関連する事物をまとめ直しながらたどっていく。

これは、偉大な先人たちの研究成果や調査報告書を、新たな視点から再編集するという試みでもある。これらの研究成果や調査報告書をデジタル空間に引き出してアーカイブしていけば、こうした再編集はより簡単な作業となり、デジタル空間はより豊かな知識を生み出すための土壌となっていく。また、デジタルアーカイブを独自の視点で組み立てなおすことで、「私の」シルクロードを表現することもできる。このように、デジタル空間のシルクロードは、過去の蓄積を基盤として、多様な視点を集積した新しいシルクロード像を再生産していく場へと発展していく可能性がある。

19世紀~20世紀の探険家(09)たちは、当時は未知だったシルクロードを必死の思いで探険し、数々の貴重なものを発見してきた。未来の探険家たちが探険するのは、もしかするとデジタル空間になるのかもしれない。彼らは、デジタル空間のシルクロードを探険し、そのアーカイブに埋まっている情報を発掘して、何か大事なものを発見していく。そしてその成果は、インターネットというデジタル空間の道を経由して多くの人に共有されるとともに、永久に記録保存されて後世に受け継がれる遺産となっていく・・・。

こんな未来のディジタル・シルクロードへの第一歩として、今回のシリーズを振り返りながらシルクロードの全体像をたどってみたい。

時間でたどるシルクロード

1. 先史時代の中央アジア

中央アジアの歴史には不明な部分が多いが、タリム盆地では、紀元前4000年期から農耕が始まったとされる。またトカラ語の研究により、紀元前2000~1000年頃に西アジア方面から、インド・ヨーロッパ語系の人々がタリム盆地に流入したと考えられている(06)。楼蘭の小河墓遺跡(06)から見つかったミイラは紀元前1800年頃のものとみられているが、これもヨーロッパ系白色人種の特徴を示している。このように中央アジア一帯は、もともとアーリア系(イラン系)の人々が住む土地であった。

2. シルクロードの黎明

中央アジアが歴史上にその姿をあらわすのは、中国が当該地域(東方の中国にとっては“西域”)に進出する際に残した記録や、中国への朝貢の記録といった、中国側の史料にほぼ限られる。もっとも早い記録は前漢の武帝の時代のもので、張騫の西域遠征(02)に伴う中央アジア諸国に関する様々な報告記事(『史記』大宛列伝『漢書』西域列伝)である。張騫が中央アジアに派遣されたのは、純粋に軍事的目的によるもので、東西交易路の開拓のためではなかったが、張騫がもたらした中央アジア諸国についての情報は、結果的に中央アジアを経由しての東西交通路を開くことになった。

さらに武帝は、衛青や霍去病といった名将軍を対匈奴戦に送り込んで外征を積極的に推し進め、紀元前121年には匈奴の勢力をタリム盆地から追い出すことに成功、紀元前102年には大宛(フェルガーナ)を陥れ、周辺の国々をも支配下に治めるにいたった。重要な東西交易路を抱えているだけでなく、良馬の産地でもあったタリム盆地は、前漢にとってきわめて魅力ある土地であり、特に大宛占領時に獲得した名馬「汗血馬」は武帝を驚喜させた(02)。こうして百年余りにわたって前漢はこの東西交易路を治めることになった。楼蘭王国が前漢の傀儡政権となり、国名を鄯善(ぜんぜん)と改称した(紀元前77年)のも、ちょうどこの時期にあたる(06)。

この前漢における西域経営は、前漢末に王莽(おうもう)が政権を簒奪して新を立てると六十年にわたって一旦中断するが、後漢・明帝の時代に復活する。これは、班超(『漢書』の著者である班固の弟)の活躍によるもので、以後も西域諸国は魏、西晋に服属、あるいは独立国として朝貢関係を保っていた。時代の異なる二種類の遺跡が見つかったミーラン(07)の第一期の遺跡(?~3世紀末)は、この時期に営まれ、また放棄されたものである。

(1)

西晋末の政治的混乱の後、中国は北と南に大きく南北に分かれ、とくに北方では漢民族と異民族が入り乱れて五胡十六国と呼ばれる多数の国家が乱立した。そのなかには、東西交易路の確保を目指して西域に支配の手をのばすものがあった。楼蘭で発見された有名な李柏文書(1)(328年)(06)は、そのうちの一国、前涼の西域経営の様子を物語っている。青海地方に拠った吐谷渾(07)(4~7世紀)が、中国国内の政治的対立やそれに伴う河西回廊の不安定化を逆に利用して東西交易の利を得たのは、この時期のことである。

この中国における南北朝時代はまた、中央アジアから多数の仏教僧が中国に渡った時代でもあった。当時の仏教文化の隆盛を物語るかのように、各地で石窟寺院が開かれ、中央アジアでは3世紀末あるいは5世紀末にキジル石窟(04)が、河西回廊の西端の敦煌では4世紀後半に莫高窟(05)が、それぞれ開鑿されている。

3. 唐による西域経営

(2) (3)

南北に分かれた中国を隋が統一し、唐がそれを受け継ぐと、中央アジア経由の東西交易は空前の発展期を迎えることになった。唐は充実した国力を背景に中央アジアに支配の手を伸ばし、640年にトゥルファンの麹氏高昌国(498~640年)を滅ぼしたのを手始めに西域諸国を服属させ、安西都護府を置いて西域(東トルキスタン)経営の拠点とし、さらには天山山脈の北方、ジュンガル盆地(ジュンガリア)を拠点とするテュルク(トルコ系)諸部族に備えるために北庭都護府を設置した(702年)。

(4) (5) (6)

こうした唐による進出の痕跡は、高昌故城(ホッチョ、カラホージャ)(グリュンヴェーデルによる平面図(2)、スタインによる平面図(3))の北のアスターナ古墳群(4)から出土した、唐文化をそのまま移植したような俑(よう)(5)樹下美人図(6)、クチャ西方のクムトラ石窟(7)に描かれた中国様式の壁画(8)にみることができる。

(7) (8)

しかし、こうした唐の積極的な西域経営も、タラス河畔の戦い(751年)でイスラム帝国のアッバース朝に大敗を喫し、さらに国内では安史の乱(755~763年)が起きたことによって急速に後退し、ついには新興のチベット勢力によって終わりを迎える。安史の乱に乗じた吐蕃(07)は、786年に河西回廊を攻略する(05)と、790年には安西・北庭の両都護府を占領して、中央アジアにおける唐の勢力を一掃したのである。ミーラン第二期の遺跡(07)は、この吐蕃による要塞址である。また、コータンに近いタクラマカン砂漠内の遺跡ダンダン・ウィリク(03)が廃棄されたのは、中央アジアからの唐勢力の撤退と時期が一致しており、唐の西域経営の終結と関連して生じた現象の一つと考えられている。

4. トルコ・イスラム化

(9)

8世紀末以降は、北方のモンゴル高原(モンゴリア)(02)にいたウイグル人(0108)がトゥルファンに侵入した(西ウイグル王国、天山ウイグル王国)。ベゼクリク千仏洞(9)(9~10世紀)(01)は、その時期にウイグル人が造営したもので、高昌故城からもウイグル人寄進者の姿を描いた幡(01)などが出土している。

また、10世紀になると、トルコ系のカラ=ハン朝が、トゥルファンを除く中央アジアの広い地域を征服した。このウイグル王国とカラ=ハン朝という、二つのトルコ系の国がこの地に立ったことで、それまでアーリア系の人々が住んでいた中央アジアは、支配者の言語であるトルコ語が一般化し、混血も進んでトルコ化(テュルク化)していった。さらに、カラ=ハン朝はイスラム王朝であったことから、中央アジアのイスラム化も徐々に進行した(トゥムシュクのイスラム教徒の墓(10)カラホトのイスラム教徒の墓(11))。そしてこの地は、トルコ系の人々が住む「トルキスタン」と現在は呼ばれるようになっている(08)。

(10) (11)

11世紀に中国西北部に立った西夏(1032~1227年)は、河西回廊を掌握し、安定した国家を築いた。熱心な仏教王国でもあった西夏は、敦煌莫高窟で新しく石窟を開鑿するとともに、それ以前に造られた石窟の重修を行っている。1900年に大量の文書類が発見されたことで知られる蔵経洞(05)は、この西夏時代に何らかの理由によって封じられたものである。また西夏は、漠北と天山方面を東西に結ぶルートと、河西回廊の重要なオアシス都市、酒泉と張掖に通ずる南北方向のルートとが交わる地点に、カラホト城(08)を築いている。

5. シルクロードの黄昏

中央アジアでトルコ・イスラム化が進んでいたころ、世界的には流通機構の大変動が始まっていた。まず、中央アジアの北方では、それまで裏街道にすぎなかったステップを東西に横切るルートが台頭してきた。さらに、イスラム商人が担い手となった海上貿易の比重が、日を追うごとに増してきた。そして、15世紀末のヨーロッパ人による新航路発見が決定的な打撃となって、東西交易における中央アジアの重要性は大きく低下した。かつて光彩を放っていた中央アジアだが、流通という大きな産業を失って弱体化し、やがて歴史の闇に埋もれていった。

過去の栄華が完全に忘れ去られた19世紀後半になって、中央アジアは砂漠に覆われた地理学上の空白地帯として注目されることになり、各国の探検隊による発掘競争(09)の標的となった。

空間でたどるシルクロード

1. 山脈・砂漠とシルクロードのみち

(12) (13)

ユーラシア大陸の中央という、必然的にその東西を結ぶ位置にあった中央アジアは、峻険な山々や荒涼たる砂漠を抱いた広大な乾燥地帯である。そのため、人々の居住や交通路は、その中にできたオアシス都市を中心に、あたかも点と点とを結ぶようにして形作られてきた。

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とくに「世界の尾根」パミール高原(葱嶺、平均高度3500~4500m)(地図(12)、その一つ標高7433mのムスターグ・アタ(13))の東側に広がるタリム盆地は、中央にタクラマカン砂漠を抱え込み、その北側を天山山脈(14)、南側を崑崙山脈(15)によって縁取られるという独特の地理的環境にあり、それらの山脈に沿ってそれぞれオアシス路が形成されてきた。

(15)

そのうち、天山山脈の北麓を通る道は「天山北路」、南麓を通る道は「天山南路」と呼ばれ、「天山南路」はさらにタクラマカン砂漠をはさんで「西域北道」と「西域南道」に分かれる。遺跡が集中するのは、この西域北道と西域南道である。

2. 西域北道

(16)

西域北道の中心地は、大きく東北部のトゥルファン地方(01)と、中部のクチャ地方(04)に分かれる。トゥルファン地方はタリム盆地とは別の盆地で、最低部は海面下154mにもなる、すり鉢状の窪地である。ここは西域北道の要衝であるだけでなく、遊牧民の活躍する天山北路やモンゴリア、ジュンガリアにも通じる交通上の要所として栄えた。ここは地理的に中国に近いことから、古くから中国文化が移植されてきた地でもある(中国伝統の図様になるアスターナ出土の伏羲・女媧図(16))。また、このトゥルファン地方は、前漢時代の車師前国や、のちの高昌国の故地でもある。

クチャは西域北道のほぼ中央に位置し、かつては亀玆国と呼ばれた。658年に安西都護府が設置され、西域経営の拠点とされた。大乗仏教を東アジアに伝えた五胡十六国時代の高僧、鳩摩羅什(04)はここの出身である。

3. 西域南道

西域南道は、西部のコータン(03)と、東部のロプ地方(06)に分かれる。そのうち西域南道における最も重要なオアシス都市は、いにしえの于闐国、コータン(ホータン)である。コータン・オアシスは、崑崙山脈に源を発するユルン・カシュ(白玉河)とカラ・カシュ(黒玉河)に挟まれた沃野で、これら二つの河床からは良質の玉が採れることで知られる。コータンの玉は、有史以前から世界各地に交易され、東は中国、西はイラン、イラク、エジプトからも発見されている。カラコルム山脈を挟んでインドと対峙する地点にあることから、11世紀初めにカラ=ハン朝によって征服されるまで、長くインド系の仏教文化が繁栄した。ダンダン・ウィリク(03)は、コータンの北東、タクラマカン砂漠の只中に残された仏教遺跡である。

(17) (18)

東部のロプ地方は、楼蘭(06)やミーラン(07)の遺跡で有名である。ロプ地方一帯はロプ砂漠と呼ばれ、「さまよえる湖」ロプ・ノールがかつては洋々と広がっていた場所であり、ところどころに風蝕によって堅い粘土層のみが残ったメサ(小丘状のもの)(17)や、ヤルダン(テーブル状のもの)(18)が点在する。土地は塩分が強く耕作に適していなかったようで、楼蘭が繁栄のさなかにあった時でさえ、その食料を周辺諸国に依存していたことを『漢書』は伝えている。

そうしたこともあって、この地方はタリム盆地の中で他地域に比べて早くに荒廃し、唐代にはすでに交通路としての重要性が薄れていた。7世紀前半、インドへの求法の旅から帰還する途中に玄奘(030609)がこの地方を通った時には、すでに人煙が絶えていたという。そのため、唐は歴代王朝の中で最も徹底した支配網をタリム盆地に張っていたのであるが、この地方に対しては手薄になっていた。そこにロプ地方に接する青海地方から新興勢力の吐蕃(07)が進出し、唐の勢力をタリム盆地から追い出すことになった。

4. 河西回廊

タリム盆地に通ずる河西回廊は、南は青海地方からチベット高原に連なる大山岳地帯の東北縁の祁連山脈と、北はモンゴリアのゴビ砂漠とが接する場所であり、そこに点々とオアシスが列をなして並んでいる。ここは東の中国と西の中央アジアとをつなぐ、文字通りの咽喉部であり、東西交易のメインルートであったから、漢代に事実上シルクロードが開かれて以来、中国からの屯田が進み、漢土の一部として開発されてきた。その西端に位置するのが敦煌(05)であり、その北辺には漢代の長城が残っている。

河西回廊は現在、甘粛省に属するが、その名称の由来となった甘州(張掖)と粛州(酒泉)からはそれぞれ甘州川(張掖河)と北大河が北流し、それらは合流してエチナ河(エツィン・ゴル、漢代には居延水、西夏時代には黒水と呼ばれた)となる。ここは古来、北のモンゴリア方面から河西回廊に出るルートであり、エチナ側の末端部分には漢代に屯田基地として居延(09)が築かれ、西夏時代には黒水城(カラホト)(08)が築かれた。

主題でたどるシルクロード

1. 遺跡

(19) (20)

東西交易の舞台となった中央アジアはまた、インドと中国を結ぶ仏教東漸の場でもあった。10世紀以降にイスラム化したが、それ以前には仏教が信奉され、インドやイラン(ペルシア)、中国の影響を受けた、バラエティ豊かな仏教美術が栄えた場所であった。

(21) (22)

【石窟寺院】断崖面を掘り込んで作った石窟寺院には、クチャ地方のキジル石窟(04)、クムトラ石窟、クズルガハ千仏洞、シムシム石窟、シクチン(七個星)千仏洞(平面図(19)壁画(20))がある。

(23) (24)

トゥルファン地方には、ベゼクリク千仏洞(01)のほかに、トユク石窟(平面図(21)外景(22))に、かなりまとまった数の石窟が残っている。

(25) (26) (27) (28)

河西回廊では敦煌の莫高窟(千仏洞)(05)が最も規模が大きく著名であるが、安西の楡林窟(万仏峡)(遠景(23)石窟内部(24)現在の写真)にも、初唐から西夏にかけての壁画や塑像が多数保存されている。

(29) (30) (31) (32)

【寺院址】都城内などの平地の寺院址について列挙すれば、西域北道ではショルチュク(遠景(25)壁画(描き起こし)(26)菩薩立像(27)仏坐像(28))、トゥムシュク(29)、ホッチョ(01)、ヤールホト(交河故城)(平面図(30)写真(31))、ムルトゥク(32)などが数えられる。

(33) (34) (35) (36)

西域南道ではヨートカン(03)、ダンダン・ウィリク(03)、ラワク(仏塔平面図(33)仏塔壁面の列仏(34)仏頭(35))、エンデレ(36)、楼蘭(06)、ミーラン(07)、カラホト(08)などがある。

2. 古文書

(37) (38)

【各種古代文字】中央アジアは各種古代文字による文書類の宝庫でもある。西域北道のクチャでは、古代のトカラ語B(西トカラ語、キジル語)、西域南道の楼蘭(06)、ニヤ遺跡(遺跡配置図(37)住居址(38))、コータンからはインド系文化を物語るカロシュティ文書(方形文書(39)楔形文書(40)やブラフミー文字、コータン語の文書などとともに、中国側の西域経営の跡を示す漢文文書が発見されている。

(39) (40) (41)

圧巻なのは敦煌莫高窟の蔵経洞(05)から発見された敦煌文書(09)で、漢文文書のほか、コータン語、クチャ語、トルコ語、ウイグル語、チベット語、ルニック書体によるトルコ語、ソグド語(41)、グプタ文字による経典、中央アジアで使用された各種言語による文書が含まれている。カラホトからは、タングート族による民族文字である西夏文字による文書が発見されている(08)。

(42) (43)

【マニ教】マニ教は、ササン朝ペルシアで生まれた融合宗教で、ササン朝ペルシアの発展とともにタリム盆地にも伝わり、その遺物(カラホージャ発見の細密画とウイグル文字の経文をもつ経典(42)敦煌発見のトルコ語の経典(43))が発見されている。

3. 砂漠

砂漠の砂と乾燥は、そこに暮らす者や旅する者を苦しめる厳しい自然環境(09)であるが、それは同時に古代の住居や寺院、墓、文書などを保存する格好の環境を作り出すことにもなった。タクラマカン砂漠中のダンダン・ウィリク(03)やロプ砂漠の楼蘭(06)は、その代表的な遺跡である。

中央アジアはそもそも、遥か昔は洋々たる水を湛えた内海であったようであるが、時代を経るとともに次第に乾燥化したと考えられている。漢代に「塩沢」と呼ばれたタリム盆地最大の湖ロプ・ノール(06)が、流れ込む河の流路によってその位置を変える「さまよえる湖」となったのも、この乾燥化によるもので、少なくなった水が旧湖床の上を場所を変えつつ残された状態にすぎないという。西夏時代に築かれ、西夏が滅んだ後も元代まで拡張して使用されていたカラホト(08)城が廃棄された理由も、中央アジア全体を襲った乾燥化に関係するとみられている。

さらに詳しく知りたい方へ

2005年12月10日 発行
執筆: 大西 磨希子・北本 朝展

目次

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おことわり

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