貴重書で綴るシルクロード

シルクロードの文化遺産の数々へ、貴重書に残された図像や写真と共に、ご案内いたします。

トゥルファンの仏教信仰:ベゼクリク千仏洞

ベゼクリク千仏洞から消えた壁画

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約100年前にドイツ探検隊がベゼクリク千仏洞(遠景(1)ドイツ隊によるスケッチ(2)石窟平面図(3))で見たものは、完全に砂に埋もれた石窟や、羊飼いの住居と化した石窟であった。ウイグル語で「絵のあるところ」「美しく飾られたところ」を意味するベゼクリク千仏洞は、その名前とは似ても似つかぬ荒廃状態にあったのである。ところが石窟の中に積もった砂を取り除いてみると、ドイツ隊の目の前に忽然と現れたのは、色も鮮やかな多数の壁画であった(如来坐像(4)龍池図(5))。

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こうして砂の中から発見された壁画は、その後どうなったのだろうか。現在ベゼクリク千仏洞を訪れても、これらの壁画は、もはやほとんど見ることができない。では、ベゼクリク千仏洞の貴重な壁画は、この100年の間にどこへ消えてしまったのだろうか。

ベゼクリク千仏洞から壁画が消えてしまった原因は、ドイツ隊に始まる各国探検隊の調査手法にある。彼らはベゼクリク千仏洞から壁画・写本・仏像などを採取し、探検の収穫として自国に持ち帰った。とくに、アルベルト・フォン・ル・コック率いるドイツ隊は、膨大な量の壁画を切り取れるだけ切り取って持ち帰ったのである(毘沙門天図(6)宝相華文(7)六道輪廻図(8))。さらに悲運なことに、ドイツに持ち帰られた壁画の多くは、その後の第二次世界大戦の爆撃によって失われてしまった。

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こうして失われてしまった壁画に関しては、探検隊が残した調査報告書の写真やスケッチなどが唯一の記録となった。東洋文庫デジタルアーカイブはこのような調査報告書のいくつかをコレクションに加えており、かつてベゼクリク千仏洞を飾っていた壁画を「デジタル化された壁画」として見ることができる。以下ではその中から何点かを取り上げ、紹介していきたい。

ベゼクリク千仏洞に描かれたウイグル人

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ベゼクリク千仏洞は、シルクロードの西域北道の要衝であるトゥルファン地方(9)に位置する。この地方を8世紀末以降に占拠したのはウイグル人であり、当時は仏教を信奉していた彼らが造営に携わった仏教遺跡の中で、最大のものがベゼクリク千仏洞である。ベゼクリク千仏洞の壁画や付近の遺跡から発見された幡には、そうしたウイグル王侯貴族の姿が寄進者(供養者)像として描かれており、かつてのウイグル人の様子を知ることができる。

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男性寄進者図(10)(9~12世紀)には、鮮やかな朱色の地に、色とりどりの衣装をまとって列をなす男性の寄進者像が上下二段に描かれている。寄進者は華を両手に捧げ持ち、それぞれに榜題が付されている。また、上段の8名と下段の右4名と左4名とでは、冠の形状が異なっている。

女性寄進者図(11)(9~12世紀)では、左右にはりだす独特の形に髪を結って瑞雲文様の髪飾りをつけ、宝珠形の冠を戴いたウイグル人の女性が、拱手して立つ姿にあらわされている。

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寄進者図にはこのような列像が多いが、中には寄進者を単独であらわした例も存在する。その一つは寄進者図(12)(9世紀)で、王侯貴族とみられる男性が華を手にたたずむ姿が描かれている。一方、ベゼクリクからほど近い高昌故城(ホッチョ、カラホージャ)で発見された寄進者像幡(13)描き起こし図(14))は、高さ140cmをこえる大型の幡で、寄進者のみを幡の本体に大きく描いているという点で他に例をみない。真っ白な髪と豊かな髭をたくわえた男性貴人は華を捧げ持ち、その左右には童子が一体ずつ小さく描かれている。

ベゼクリク千仏洞の誓願図

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ベゼクリク千仏洞を代表する壁画といえば、ドイツ隊が誓願図(誓願画)(15)と命名した大画面の壁画である。この種の壁画が「誓願図」と命名されたのは、それが前世における釈迦の誓願を描いていると考えられたためである。では、そもそも「前世における釈迦の誓願」とは何なのか。

(16) (17)

仏教はインドの伝統思想、すなわち、人は何度も生まれ変わりを繰り返し(輪廻転生)、あらゆる現象にはそれ相応の原因がある(縁起、因縁)、という考え方を受け継いでいる。そして、釈迦が覚りを得て仏となったことについても、前世における仏(過去仏)への供養と、それに対する過去仏からの成仏の確約(授記)がその原因である、と説く物語が生み出された。なかでも著名なのは、燃燈仏(ねんとうぶつ、ディーパンカラ、定光仏)にまつわる、燃燈仏授記である(ベゼクリク第9号窟壁画(16)[b]ガンダーラ地域出土浮彫(17))。

あるところに、スマティ(メーガともいう)というバラモンの青年修行僧がいた。彼は、燃燈仏が都にやってくるということを聞き、蓮華を捧げて供養しようと考えた。ところが燃燈仏を供養しようとする国王が蓮華をすでに買占めてしまっており、蓮華を入手することは困難な状況にあった。なおもあきらめずに探していると、幸いにも蓮華を水瓶に插した娘に出会い、スマティは彼女に頼み込んでなんとか蓮華を分けてもらった。その蓮華を燃燈仏に捧げてみると、その蓮華は空中に浮かび、燃燈仏の頭上にとどまるという奇瑞があらわれた。一方で、燃燈仏の進む方向に泥水があることに気付いたスマティは、泥水の上に自分の髪を敷いて燃燈仏の足が汚れないようにした。このような供養の様子を見た燃燈仏は、スマティに対して、「あなたは未来に釈迦となって生まれ、覚りを得るであろう」との予言を授けたという。

このような授記物語をもとに描かれたのが、ベゼクリクの誓願図である。この壁画は、いくつもの石窟の内部廻廊両壁に何画面も連続する形で描かれており、図様には多くのバリエーションがある(第9号窟3次元モデル)。しかし基本的な構図はどれも共通しており、中央に大きく描かれた巨大な仏立像は燃燈仏などの過去仏を、その周囲で礼拝する供養者(国王やバラモンなどの姿になる)は前世における釈迦の姿をあらわしていると解される。

このような解釈の根拠となるのが、誓願図に付された銘文の中に、『根本説一切有部毘奈耶薬事』(こんぽんせついっさいうぶびなややくじ)と一致する部分があるという事実である。この経典は、トルファン地方で優勢だった説一切有部(せついっさいうぶ)という部派仏教(小乗仏教)の一派のもので、その中では授記物語が説かれているのである。したがって、ベゼクリクの誓願図は、明らかに説一切有部の影響下に生み出されたものと考えられる。おそらくベゼクリクの誓願図は、釈迦の事跡にならいつつ、自らも仏となることを願って描かれたのであろう。

ドイツ隊による調査とその後

15世紀半ばから16世紀半ばにかけて、トゥルファン地方がほぼ完全にイスラム化すると、ベゼクリク千仏洞は完全に放棄され、ドイツ隊が訪れた時には砂と黄塵にすっかり埋もれてしまっていた。しかし砂に埋没していたことが、効を奏する結果となった。砂に埋もれていた部分の壁画は吹きすさぶ烈風から守られ、ほとんど完全な状態で保存されたからである。発掘時の状況を、ル・コックはつぎのように語っている。

(18)
「この寺にも内陣をかこむせまい廻廊があったが、床から壁のてっぺんまで、ぎっしり山砂でうまっていた。ようやくのことで、左側廻廊の砂山にたどりつき、それをよじのぼろうとすると、砂は身体の重みでずるずるとくずれ落ちてきた。そこで脚をたえず高く上げて足がかりを得ようと踏みつけながら、山をなした数百ポンドの砂を取りのけた。このようにしてむき出しになった左右の壁面に、さながら魔法の力によってでもあるように、今描き上げたばかりの真新しさで、すばらしい彩色の画面が現われ出たのである。[a]」(原文(18)

このようにしてドイツ隊がベゼクリク千仏洞から切り取って持ち帰った壁画のうち、コレクションの中心をなす誓願図は、ベルリン民俗博物館(Museum für Völkerkunde, Berlin)の建物に固定する形で展示されていたため(空爆前のベルリン民族学博物館の展示状況(19))、第二次世界大戦中の1944年、空爆の直撃を受けほぼ全滅してしまった。

(19) (20) (21) (22)

しかし一方で、ドイツ隊は充実した内容になる調査報告書や図録を作成している(第8号窟平面図(20)[c])。とくにル・コックの『Chotscho』(Berlin 1913)やグリュンヴェーデル『Altbuddhistische Kultstätten in Chinesisch-Turkistan』(Berlin 1912)などは、誓願図を含む豊富な図版と詳細な記録を載せており、ベゼクリク千仏洞を代表する第9号窟[b]の壁画ベゼクリク第9号窟の3Dモデルなど、すでに実物が失われてしまった作例についての、ほとんど唯一の資料となっている(第9号窟平面図(21)第9号窟壁画配置図(22))。

[a] 日本語訳は、木下龍也訳『中央アジア秘宝発掘記』(参考文献4)120頁にもとづく。
[b] ドイツ隊による編号。現在の現地での編号は、第20号窟になる。
[c] ドイツ隊による編号。現在の現地での編号は、第18号窟(中央)と19号窟(左側)になる。

さらに詳しく知りたい方へ

2007年07月13日 改訂6版
2005年02月20日 発行
執筆: 佐藤 園子・大西 磨希子・北本 朝展

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