貴重書で綴るシルクロード

シルクロードの文化遺産の数々へ、貴重書に残された図像や写真と共に、ご案内いたします。

玄奘に思いを馳せたスタイン:ダンダン・ウィリク

砂漠に埋もれた廃墟

ダンダン・ウィリク[a]は砂漠に残った廃墟である。そしてイギリスの探検家オーレル・スタインにとって、ここは生涯忘れられない土地となった。というのも、彼が敬慕してやまない玄奘(玄奘三蔵)が残した記述を裏付ける遺物が、ここから次々と発見されたからである。

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ダンダン・ウィリク(「象牙の家々」の意)とは、コータン(ホータン)を中心に栄えた仏教文化圏に属する遺跡の一つである。コータンは古代から玉の産出で有名な場所で、かつて于闐(うてん)と呼ばれた王国が繁栄し、現在も西域南道最大のオアシス都市としてにぎわっている。その北東に位置するダンダン・ウィリクも、かつては人々が暮らす土地だった。しかし何らかの理由で放棄され、その直後にはタクラマカン砂漠に丸ごと埋もれてしまった。そしてこの地は人々の記憶からも消え、1000年をこえる時が流れた。

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このダンダン・ウィリクの廃墟を1896年に発見したのが、タクラマカン砂漠を横断したスウェン・ヘディンだった。水路や並木道・果樹園などが残る廃墟を見て、ヘディンはこの遺跡の重要性を理解したのだったが、彼自身は考古学者ではなかったので発掘調査は専門家にゆだねることにし、その位置などを「古代都市タクラマカン」として記録に残した。この遺跡の記録に興味を持ったのが、オーレル・スタインである。

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1900年冬、発掘調査地点としてダンダン・ウィリクに狙いを定めたスタインは、コータンに滞在しながら調査に必要な人員や装備を整えた。コータンを出発したスタインは河川沿いに北上し、次に東に向きに変え、砂漠を進みながらダンダン・ウィリクを目指した(地図(1))。昼間は地下水を補給するために井戸を掘り、夜間は零下20度に達する寒さに耐えるという、過酷な旅が続いた。そしてついにダンダン・ウィリク(2)に到達したスタインは、そこで大きな収穫を得ることになる。

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約一ヶ月にわたる発掘調査により、十四箇所に上る仏教寺院址や住居(僧坊)址(3)が明らかとなり、そこから板絵(4)、ストゥッコ(化粧漆喰)製の仏倚坐像(5)仏坐像(6)蓮華化生像(7)、壁画、文書などが多数発見された。また、ここで発見された仏教寺院址(8)は、内陣の四周を回廊が取り囲むという方形有心堂形式(9)であり、内陣を右方向にめぐりながら礼拝する(右繞礼拝)構造になっていることなどがわかった。

コータンの伝説を描くダンダン・ウィリクの絵画

ダンダン・ウィリクで発見された絵画の中には、コータンに伝わる有名な伝説 − 蚕種移入伝説と聖鼠伝説・龍女伝説 − にまつわるものがある。これらは、玄奘の著書『大唐西域記』にも記されているほど、よく知られた伝説である。

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蚕種移入伝説とは、于闐国王に嫁した中国の君主の娘が、国外への持出しを禁じられていた桑と蚕の種を帽子の綿のなかに隠して于闐にもたらしたという伝説である。彩色板絵(10)を発見したスタインは、頭飾をつけた中央の貴婦人がその王女であり、向かって左側の侍女が左手を上げて貴婦人の頭飾を指し示していることが、コータンの蚕種移入伝説を物語っていると解した。また、侍女と貴婦人との間にある籠には蚕の繭が盛られており、板絵右側には別の侍女とともに絹を織る織機がある。コータンで養蚕が始まった経緯については諸説あるが、シルクロードの都市コータンは、絹を運ぶだけではなく、絹を作り出す町でもあったのだ。

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次に聖鼠伝説とは、かつてコータンが匈奴に襲撃されたとき、ネズミが都市を救ってくれたという伝説である。板絵(11)には、頭部がネズミで王冠を戴いた一人物が、二人の侍者にはさまれて坐っている。これは、ネズミを神格化してあらわしたものと考えられる。

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そして龍女伝説とは、コータンの東の河に住んでいた龍女が、自分の夫となる人物を選ぶように王に求め、それに応えた大臣が白馬に乗って婿入りしたという伝説である。第二寺址の内陣壁画(12)は、蓮を浮かべた方形の池で沐浴している一人の女性の手前に馬が描かれており、この伝説との関連が考えられる絵画である。スタインはこの壁画を保存するために、これを切り取って自国に送りたいと考えたが、壁画の漆喰がもろかったために断念した。

文書と貨幣が語るダンダン・ウィリクの最後

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ダンダン・ウィリクでは、サンスクリット(13)ブラフミー文字(14)など、さまざまな言語による文書が発見されたが、特に重要なのは紀年のある漢文文書である。例えばある漢文文書(影印(15)翻刻(16))には、大暦十六年(781)という日付だけではなく、文書の発行場所が「六城」の「リー・シエ」であることが記されており、ダンダン・ウィリクの寺院址と住居址が属していた小地域の中国名が「リー・シエ」であり、それが所属していた行政区画が「六城」と呼ばれていたことが判明した。また別の漢文文書(影印(17)翻刻(18))からは、寺院の一つが「護国寺」であったことも明らかになった。

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さらに、これらの文書が発掘された状況が、この都市の最後を謎解きするためのカギを提供することになった。これらの文書はいずれも、床面にぴったり付着した形で発掘された。なぜそうなのか? おそらく文書が床の上に撒き散らされた後、風が文書を吹き飛ばすより前に、砂が室内に入り始めたのだろう。とすると、紀年のある漢文文書は、ダンダン・ウィリクが捨てられた時期をまさに物語っているのではないか。こう考えたスタインは、ダンダン・ウィリクが放棄された時期を八世紀末と推定した。スタインが発掘した貨幣の一つである乾元重宝(19)(758~759)も、この推定時期と一致している。

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ではどうして、ダンダン・ウィリクは捨てられてしまったのか?「さまよえる湖」説で有名なヘディンは、河道説を主張した。すなわち、もともとダンダン・ウィリクのそばを流れていたケリア・ダリア(地図(1)の右端を流れる川)が約45km東に移動したことが、捨てられた原因であるという説である。しかしスタインは、発掘や測量の結果に基づき、この仮説を否定した。

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スタインはむしろ、中国側の史書に記載される唐王朝のタリム盆地掌握の終結時期と、遺物から推定されるダンダン・ウィリクの廃絶時期が合致することに着目した。遠く離れた河川から延々と水を引くことによって成り立っていた砂漠の居住地にとって、灌漑を維持しうるだけの安定した行政が崩れることは、命綱を断たれるに等しいものである。そこでスタインは、中国側の支配権崩壊という政治的混乱が、ダンダン・ウィリク廃絶の原因であるとした。おそらくダンダン・ウィリクの人々は、何らかのきっかけにより、この砂漠に囲まれた小さな居住地を捨てる決断を下したのではないかと考えられる。

砂漠に留められたコータンの残影

スタインはダンダン・ウィリクの発掘に先立って、古代コータンの都・ヨートカンを調査した。しかしヨートカンは灌漑によって絶えず運び込まれる水と土砂の影響で、遺物は保存されにくい状況だった。「伽藍百有余所、僧徒五千余人、並びに多く大乗法教を習学す。王甚だ驍武にして、仏法を敬重す」と玄奘が記録した仏教王国の遺跡発掘においては、スタインは目覚しい成果をあげることができなかった。

スタインが仏教王国コータンの残影を見出したのはむしろ、当時のコータン地域では遠隔の小定住地であったダンダン・ウィリクであった。ここは砂漠の中に河の水を引いて人工的に作った居住地であったため、放棄された後は住む人もなく、灌漑による水や土砂の影響を受けることがなかった。そのため、さまざまな遺物がよい状態で保存されることになったのである。

スタインは荒涼たる砂漠の中に、打ち捨てられた寺院や住居の址、古代の果樹園や並木道、灌漑用水路の痕跡、粗末な住居の位置を示す瓦礫の区画などを見出した。彼は『大唐西域記』に描かれた、かつてのコータンに思いを馳せた。

私が見たり、発見したりしたものが、すべて昔の唐僧の玄奘がこの地方の仏教について伝えている記事といかに一致しているか。

スタインがダンダン・ウィリクで発見したものは、『大唐西域記』が描くかつてのコータンの姿を彷彿とさせるものだった。インドからの帰途にコータンに立ち寄った玄奘が見たであろう光景を想像しながら、スタインは感激にひたっていた。探検の間はスタニスラス・ジュリアン訳の『大唐西域記』をつねに携え、目にする地形や遺跡も『大唐西域記』の記述と対応させていたスタインにとって、玄奘は特別な存在だった。その玄奘が生きた時代の光景を今に伝えるダンダン・ウィリクは、スタインにとって特別な地となったのである。

[a] ダンダン・ウィリク(DANDĀN-UILIQ)には、ダンダンウイリクやダンダーン・ウィリークなどの異なる表記がある。

さらに詳しく知りたい方へ

2005年04月20日 改訂
2005年04月10日 発行
執筆: 大西 磨希子・北本 朝展

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