貴重書で綴るシルクロード

シルクロードの文化遺産の数々へ、貴重書に残された図像や写真と共に、ご案内いたします。

「さまよえる湖」の謎を解いたヘディン:ロプ・ノールと楼蘭

ロプ・ノールの謎をめぐる論争

19世紀後半、東トルキスタン(タリム盆地)東部のロプ砂漠は、地球上に残された数少ない地理学的空白地帯として探検家の関心を集めていた。特に、そこにあるはずの湖「ロプ・ノール」[a]は注目の的だった。中国の文献には、タリム盆地の東側に大きな湖があることが記録されている。ところが、そんなに大きな湖であるにもかかわらず、それがどこにあるのか、当時は誰も知らなかったのである。湖がどこにあるのか、その謎を解けば地理学上の大発見だ − このことが各国の探検家をロプ・ノールの探求に駆り立てた。

(1)

ロプ・ノールはどこにあるのか、という問題に関する論争には、実は長い歴史がある。ロシアのプルジェワルスキーは、初めてタリム河下流地方を探検し、ロプ・ノールの位置を論じた。彼は1876~77年にかけてタリム河の下流を調査し、その行き着く先にカラ・ブランとカラ・コシュンという二つの湖を発見した(地図(1))。そして、探検の途中では、タリム河から東の方向へ流れる支流を見なかったため、この二つの湖こそロプ・ノールにほかならないと考えた。

この説に対して、ドイツの地理学者リヒトホーフェン[b]は直ちに反論を加えた。第一に、中国の史書によればロプ・ノールは塩湖であったと考えられるにもかかわらず、プルジェワルスキーが発見した二つの湖はいずれも淡水湖であった。第二に、中国の古地図に記されたロプ・ノールの位置と比べて、二つの湖は南に400キロも隔たった位置にあった。つまりプルジェワルスキーが発見した二つの湖は記録と一致していない。ゆえにロプ・ノールとは別の湖である、というのがリヒトホーフェンの考えであった。

こうして、ロプ・ノールがどこにあるのかという謎は、コズロフ(プルジェワルスキーの弟子)やヘディン(リヒトホーフェンの弟子)を巻き込んだ、地理学上の一大論争に発展していった。

(2)

この論争を考える際に外せないのが、「楼蘭姑師、邑有城郭、臨塩沢」(『史記』大宛列伝(2))という記述である。ここにある「塩沢」、そして中国の史書に「泑沢」「蒲昌海」「輔日海」「牢蘭海」などと記されるものは、いずれもロプ・ノールを指すと考えられる。そしてもう一つ、この記述に登場しているのが「楼蘭」である。シルクロードの古代都市「楼蘭」とは、中国の史書に西域諸国の一つとして記されている都市で、敦煌から西へのびる古代シルクロードが天山南路(西域北道)と西域南道に分岐する場所に位置したために、貿易上の重要な中継地点となっていた。ところが、6世紀以降に楼蘭一帯は広範囲にわたって無人化したため、当時はもう楼蘭がどこにあったのかさえわからなくなっており、その実態は全く不明のままだった。つまりこの地域には、謎の湖「ロプ・ノール」に加えて、謎の都市「楼蘭」という、もう一つの謎が残っていたのである。

これらの謎を解くためには、ぜひともロプ・ノールを発見する必要があった。さらに、もし楼蘭までも発見できれば、その都市が臨んでいる湖は「塩沢」、すなわちロプ・ノールであるから、同時に両方の謎が解けてしまうことになる。現にロプ・ノールを目指したヘディンは、1900年の探検で、まず古代の湖の痕跡を発見したあとに、砂漠の中から古代都市の遺跡を発見した。これが楼蘭遺跡(LA遺址)であると確定したことが決め手となって、ロプ・ノールの謎は解かれるにいたるのである。

楼蘭遺跡の発見とロプ・ノールの謎の解決

1900年、ヘディンはロプ砂漠を北から南へ縦断し、その縦断面図(高低図)を作製する計画を立てた。この断面図から湖らしい地形を探せば、ロプ・ノールの旧湖床が判明するのではないか、と考えたのである。実際に縦断してみると、そこにかつて湖があったことはすぐに明らかとなった。そこには夥しい数の螺貝の殻や厚い塩の層(塩皮殻)、枯れた白楊の林があったのである。ヘディン隊は、古代の湖床の上を進んでいった。

(3)

さらに進んでいくうちに、ヘディン隊は偶然、いくつかの廃址に遭遇し、そこに人々が生活していた痕跡を見出した。そして幸運は重なった。それはヘディンの従者の一人、ウイグル人のエルデク(3)が、この廃址にシャベルを置き忘れたことによるものだった。ヘディン隊はシャベルをこの一本しか所持しておらず、それはテントの設置に欠かせない非常に貴重なものであったから、彼は隊から離れて一人でシャベルを取りに引き返すことにした。その途中で彼は、仏塔を含む多数の住居址(仏塔周辺(4)スタインによる平面図(5))を発見したのだ。結果的にはこれが楼蘭だった。

「思えば彼(エルデク)が円匙を忘れたのは、ただ幸運というよりほかなかった。もしこのことがなかったら、私がこの古代都市をもう一度訪れることも、また内陸アジアの古代史に、新しい、予想だにしなかった光を投ずることになった、あの偉大な発見をなすこともできなかったろう。」(『探検家としてのわが生涯』より)
(4) (5)

ヘディンは翌1901年、同じ遺跡で木簡や紙文書を多数発見して持ち帰った。ヘディンの帰国後、漢文やカロシュティー文字で書かれていた文書は、専門家によって次々に解読されていった。そして、これらの文書が中国(西晋)の駐屯軍が取り扱った私的・公的な記録や往復書簡であり、265~330年頃までの日付をもつこと、この文書が出土した場所は現地では「クロライナ」と呼ばれており、「楼蘭」はその音訳であったこと、などが判明した。つまりこの遺跡は、まぎれもなく古代都市「楼蘭」だったのである。となると、ヘディンが見た古代の湖床は、楼蘭に臨む湖、すなわちロプ・ノールということになる。

ロプ・ノールはどこにあるのか、楼蘭はどこにあるのか、という二つの謎は、こうして全面的な解決をみたのだった。

「さまよえる湖」説の提唱と鮮やかな実証

しかし、ここで新たな謎も浮かんできた。確かに古代にそこに湖があったことはわかった。しかしなぜ、今となっては湖に一滴も水が残っていないのだろうか。この謎を説明するために、ヘディンは大胆な仮説を提唱した。

ロプ砂漠を測量したヘディンは、北部の楼蘭遺跡と南部のカラ・コシュンとの間の高低差が、わずか2メートルしかないことに注目した。このような平坦な砂漠を流れる河川は、わずかな地表の変化にも反応して流路を変えるのではないだろうか。

そしてこのメカニズムによって、楼蘭が滅びた理由も説明できると考えた。楼蘭遺跡から出土した漢文文書の下限は330年頃であるから、楼蘭はそれから間もなく放棄されたと考えられる。その理由は、かつて楼蘭地方に流れ込んでいたタリム河の下流が、堆積作用の進行に伴って四世紀頃に流路を南へ変え、タリム盆地の東南部にあるカラ・ブラン、カラ・コシュンという二つの湖に流れ込むようになったからではないだろうか。楼蘭に水が流れてこなくなって湖が干上がれば、都市機能を維持していくことは困難である。こうして楼蘭は滅びたのだろう。

さらにヘディンは、カラ・ブラン、カラ・コシュンの二つの湖に堆積物が沈殿しつつある一方で、楼蘭遺跡付近は烈風による侵食が進んでいることにも気付いた。とすれば近い将来、以前とは反対のことが起こり、タリム河下流はかつての流れに再び戻り、湖もかつてのロプ・ノールの位置に出現するだろう。

このように考えを重ねていったヘディンは、タリム河とは約1500年周期で下流が南北に振れる川であり、ロプ・ノールとは川の流れの変動に伴って移動する湖であるという、大胆な仮説を提唱するようになった。彼はこの仮説を印象的に表現する言葉として、ロプ・ノールのことを「さまよえる湖」と呼んだ。

(6)

彼の予測は見事に的中した。1921年頃からタリム河下流は流れを変え始めた。それまで南東方向に曲流していたタリム河の下流が、東方向にのびる旧い河床に流れを戻し始めたのである(右側:枯れつつある南東方向への流路左側:新しくできた東方への流路(6))。

この噂を耳にしたヘディンは、それを自分の目で確かめるため、再びロプ・ノールの地に向かった。「さまよえる湖」説を提唱してから30年以上経った1934年4月。自ら考え出した仮説が見事に実証された喜びをかみしめながら、ヘディンは新しくできた河[c]をカヌーで下っていった。

「私が34年前に幸いにも征服することのできたあの砂漠の中まで、この濁った川筋をたどっていくことを考えると、身の引き締まるような思いがすると言ってもよかった。私たちのカヌーは、道のない河床に印された私自身の駱駝の足跡の上を滑っていく。足跡が34年の歳月の間に、東から吹くきびしい春の嵐で掻き消されてしまっているのは間違いないが、それでも1900年3月に私のキャラバンが前進をつづけていったのは、まさにここであり、まぎれもなくこの同じ川の河床なのである。」(『さまよえる湖』より)
(7) (8)

ヘディンは、かつて砂漠の中を呻吟しつつ駱駝で旅した場所(1901年(7))を、今度は悠然とカヌーで下っていった(1934年(8))。そしてその先には、旧位置へ戻ってきたロプ・ノールが、満々と水を湛えて広がっていた(地図(9)ヘディンによるスケッチ(10)湖上のヘディン(11))。まさしく彼の仮説の通り、ロプ・ノールとは、注ぎ込む河川の流路によって移ろうという「さまよえる湖」だったのである[d]

(9) (10) (11)

こうして、ロプ・ノールはどこにあるのか、という謎から始まった探求活動は、ロプ・ノールがどこにあるのかを明らかにしただけではなく、時代ごとに遷移する湖という新しい考え方を生み出すまでに発展していった。そして探求活動の副産物として、古代都市「楼蘭」の遺跡も発見され、その後のシルクロード研究の進展に大きく貢献することになった。

楼蘭4000年の歴史

では最後に、楼蘭がどのような歴史をもつのかについて簡単に整理してみたい。とはいえ、楼蘭にはまとまった形での歴史記述が存在しないため、楼蘭の歴史をたどることは簡単ではなく、中国史書や出土文書、遺物といった断片的資料を用いて推し量るほかない。

ロプ・ノール周辺からは、石器や彩色土器など先史時代の遺物が発見されており、数千年前からこの辺りに人類が住んでいたことが確認されている。またトカラ語の研究によって、今から三、四千年前に西アジアからインド・ヨーロッパ語族の人々がタリム盆地へ侵入してきたことも明らかにされている。しかし、いつ頃から楼蘭に王国が成立していたかについては全く不明である。

楼蘭がはじめて記録に現れるのは、紀元前176年のこと。匈奴の冒頓単于から前漢・孝文帝に送られた書簡のなかに、匈奴が滅ぼした国の一つとして楼蘭の名が登場する(『史記』匈奴列伝)。これによって少なくとも、それ以前には楼蘭という国が建てられ、かつ匈奴の支配下に入っていたことが知られる。その後、東西貿易の要に位置する楼蘭は、その利潤を狙う匈奴と漢の板ばさみにあい、その勢力争いに翻弄されることになる。

紀元前77年には国王安帰(あんき)が漢の派遣した傅介子(ふかいし)によって暗殺され、漢の後ろ盾による新王が即位するという事件が発生した。そして、漢によって国名は鄯善(ぜんぜん)に改められ、以後は漢の傀儡王国と化した(『漢書』西域伝)。漢の西域経営は、次の西晋、さらに前涼にも受け継がれていった。大谷探検隊が楼蘭(LK遺址)で発見した有名な「李柏文書」は、この前涼の西域長史李柏が328年に焉耆(えんき、カラシャール)王に送った手紙の草稿である。

中国側からの支配は断続的に続いた。五世紀には北魏が一時、中国人の王を楼蘭に立てて鄯善鎮とし、六世紀末には隋が鄯善郡を置いている。しかし五世紀以降、この地は吐谷渾(とよくこん)や蠕蠕(じゅじゅ、柔然)、丁零(ていれい、テュルク族)などの遊牧民の侵入をたびたび受けて疲弊していった。唐初の630年頃には、この地に残っていた鄯伏陁(ぜんふくだ)に率いられた鄯善人が北方のハミ(伊州)に移住したという(『沙州伊州地志』伊州納職県の条)。これによって楼蘭の故地はほぼ無人化したらしく、644年にこの地方を通ってインドから帰国の途についた玄奘は、「城郭有れども人煙なし」と記している(『大唐西域記』巻五)。

こうした史書からたどれる歴史に加えて、ヘディンやスタインによって発見された文書からは、商業、交通、産物、農業、軍事組織、戦争などに関する楼蘭の歴史を調べることができる。例えば、徴税に手間取ったこと、外敵の侵入に脅えていることなど、楼蘭王国が直面していた現実が文書から伝わってくる。また漢文文書の中には、故郷から遠く離れて軍務につく肉親にあてた往復書簡も含まれている。

(12) (13)

楼蘭に生きた人々やその暮らしについては、墓地群から発見されたミイラ化した遺体や遺品(帽子(12)刺繍(13)ミイラを調査するヘディン(14))などが貴重な資料となっている。ヘディンが「楼蘭の王女」「砂漠の貴婦人」などと名づけた若い女性のミイラ(15)は、シルクロードの分岐点として栄えた楼蘭のかつての威光を物語るかのように、その身に色とりどりの絹をまとっていた。

(14) (15)
「王女の顔の肌は羊皮紙のように固くなっていたが、顔立ちや面差しは時の移ろいによって変わってはいなかった。王女は瞼を閉じて身を横たえていたが、瞼の下の眼球はほんの心持ちくぼんでいた。口もとには今なお笑みをたたえていた。その笑みは何千年の歳月にも消えることなく、その笑みによって謎の王女はますます魅力を増し、人の胸に訴えかけてくる。……「楼蘭の王女」は、二千年の眠りから掘り起こされ、星明りに照らされて今一度まどろんだのである。」(『さまよえる湖』より)
(16)

それから60年あまり、楼蘭をめぐる発掘は途絶え、ヘディンらが見つけた墓の正確な位置すら定かではなくなっていたが、近年になって小河墓遺跡(16)[e]、古墓溝遺跡、鉄板河遺跡から、ヨーロッパ系白色人種(コーカソイド)のミイラが相次いで発掘された。これらはC14法(放射性炭素計測法)の分析によれば、約3800年前に遡ると推定されている。つまりこれらの人々は、漢代に初めて歴史に現れた楼蘭王国よりも、さらに千数百年以上も前にこの地に住んでいたことになる。

楼蘭は想像以上に長い歴史をもつ場所であった。これらの人々はどのような背景をもち、どのような生活を送っていたのか。謎が解かれた「さまよえる湖」とは異なり、こちらは依然として謎のままである。

[a] スタインによれば、「ロプ・ノール」とはモンゴル語で「ロプの湖」を意味し、タリム河末端に形成される湿地の複合体を指す言葉として、中国やヨーロッパの地図製作者に採用されたという。
The Mongol name Lop-nōr, ‘lake of Lop’, adopted by Chinese and European cartographers for the whole complex of the terminal marshes of the Tārīm, ......Serindia: Vol. 1, p. 318.
[b] 「シルクロード」という呼び名の生みの親。中央アジアを経由する東西交通路を、ドイツ語で「絹の道」を意味する「ザイデンシュトラーセン(Seidenstraßen)」という言葉で呼んだ。シルクロードはその英訳である。
[c] 涸いた河を意味するクルック・ダリアと呼ばれていたが、水が流れるようになってからは、クム・ダリア(砂の河の意)と改称された。
[d] ロプ・ノールはその後しばらくは存在していたが、次第に縮小していき1972年頃には事実上消滅していたことが、衛星画像などで確認されている。これは、タリム盆地の気候変動による乾燥化や、タリム河上流での灌漑などが原因であると考えられている。
[e] 1934年にヘディン隊の一員であった考古学者フォルケ・ベリマンが、ヘディンの本隊と分かれて発見した墓地群。エルデクの案内によって発見したため、「エルデクのネクロポーレ(死者の町)」と名づけられた。2000年に新疆ウイグル自治区文物考古研究所により再発見され、2003年に発掘調査が始められた。楼蘭遺跡から西に100キロあまり砂漠へ入ったところにあり、1000体近いミイラが眠っているとされる。

さらに詳しく知りたい方へ

2005年07月29日 発行
執筆: 大西 磨希子・北本 朝展

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