貴重書で綴るシルクロード

シルクロードの文化遺産の数々へ、貴重書に残された図像や写真と共に、ご案内いたします。

探検に人生をかけた人々:情報と名誉をめぐる競争

中央アジア探検前史:不毛の砂漠から埋蔵文化財の宝庫へ

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1890年、英国インド軍の命を受けてタリム盆地にやってきたバウアー大尉は、もともと古文書に興味を示すような人物ではなかったのだが、ある日、何気なく古文書を買ってみる気になった。彼がタリム盆地にやってきたのは、インド北部からタリム盆地へ入る際の常道だったカラコルム峠(1)(5570m)付近で1888年に発生した、「イギリス商人ダルグレイシュ殺害事件」の犯人捜査のためだった。おそらく彼は、捜査の途中で土産物を買うような軽い気持ちで、クチャの現地人から古文書を購入する気になったのだろう。ところが、彼がたまたま購入した古文書は、実はとんでもない掘り出し物だった。そしてこの掘り出し物が引き起こした衝撃は、全ヨーロッパから全世界へと広がり、やがて中央アジア探検という大きな時代の流れを生み出すきっかけとなった。

この古文書、実はインド古代のブラフミー文字で書かれたもので、英国のインド学者ヘルンレ(Hoernle, A.F.Rudolf)による解読の結果、紀元5世紀頃にまで遡る古い文書であることが判明した。それ以前にインドで発見されていたどの文書よりも古いものだったのである。それほどに古い文書が、インドではなくタリム盆地という辺境の地から出てきた、というのだから、その驚きは大きかった。

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それまでタリム盆地(中国領中央アジア、シナトルキスタン、新疆)(2)に人々が抱いてきたイメージといえば、世界有数の山脈に囲まれた人を拒む不毛の砂漠、というものであった。このようなイメージは、タリム盆地に対する地理学的・地質学的な興味を惹き起こしていた。またタリム盆地は、西トルキスタンを併合してさらなる南進を目指すロシアと、インドを拠点に据えたイギリスが、互いに領有をめぐって睨みをきかせつつ清王朝に対峙しているという、政治的にきなくさい地域でもあった。ところが古文書の大発見がきっかけとなって、タリム盆地のもう一つの側面が突如としてクローズアップされるようになった。この地は、古い文化が栄え、砂漠の乾燥と砂がその文化財を保存してきたという、世界でも類を見ない埋蔵文化財の宝庫だったのである。

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バウアーが購入したことからバウアー文書と呼ばれるようになったこの古文書の発見以来、タリム盆地西端のカシュガルに領事館を構えていたロシアとイギリスの外交官たちは、現地の宝捜し人(そのうちの一人、スタインの調査に参加したトゥルディ(3))から持ち込まれる古文書を蒐集し始めた。そして、現地の宝捜し人から古文書を購入するという段階は、やがて本国から探検隊を派遣して直接遺物を発掘するという段階へと発展していく。

バウアー文書の発見から第一次世界大戦までの20年余りの間、中央アジア探検にはスウェーデン、イギリス、ドイツ、フランス、日本、ロシアの各国探検隊が続々と参入し、埋蔵文化財の獲得競争を繰り広げることになった。この競争は、少しでもよい情報を入手して他の探検隊に先んじようという、探検家自身やその出身国の名誉をかけた競争でもあった。

中央アジア探検競争の主役たち

砂漠の開拓者:ヘディン

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こうした探検ラッシュのきっかけをつくったのは、スウェーデンの探検家スウェン・ヘディン(似顔絵(4))のタクラマカン探検(ヘディン第1次探検:1893~97)である。地理学を学んだ彼にとって一番の関心事は、誰も足を踏み入れたことのない未知の土地を踏査し、地図の空白を埋めることにあった。また同時に彼は、続々と集められる古遺物や、タリム盆地に伝わる「砂中に眠る古代都市」の伝説にも魅力を感じていた。

彼の恩師であるリヒトホーフェンは、そんな彼に対して、探検の方向付けに関わる大きな示唆を与えた。アメリカ西部と中央アジア西部の乾燥化についての研究を進めていたリヒトホーフェンは、内陸アジアは地質時代には内海で、それがある程度乾燥した時にその周辺地域で文化が発生したのではないか、と考えており、その観点からタリム盆地に注目しヘディンに調査を促していたのである。

カシュガルのロシア領事ペトロフスキーがヘディンに見せたコータン(ホータン)地域出土の遺物は、彼をさらに後押しし、コータン行きを決断させた。そして、コータンから北北東にタクラマカン砂漠に踏み入った地点で、1896年1月半ば、流砂に埋もれた廃墟を発見した。この「古代都市タクラマカン」、また後に「スウェン・ヘディンの古代都市」とも呼ばれることになった廃墟発見のニュースは、ヨーロッパの学会に衝撃を引き起した。伝説が単なるお伽話ではないことが、今や明らかとなったのである。

ヘディンはその後も第2回探検(1899~1902)において、謎の巨大湖ロプ・ノールの位置を突き止める探検に向かい、その道程で幻の都市、楼蘭を発見するという幸運に恵まれた。楼蘭でヘディンは、古代の墓をいくつか掘り起こし、ミイラを写真やスケッチに記録し、それらの衣服の一部を切り取るなどの簡単な調査を行った。このようにヘディンはごく簡単に調査しただけであったが、ここを本格的に発掘すれば重大な考古学的成果につながることは明らかだった。しかしヘディンは、第一発見者になったという事実だけで満足していた。考古学は彼の専門ではなかったため、遺跡の本格的な調査は後続の専門家に委ねるべきだ、というのが彼の考えだった。そして実際、後続の探検家たちはヘディンが残した情報を大いに活用し、遺跡の発掘成果を挙げていったのである。

ヘディンは探検技術に関しても後続の探検家たちに多大な便宜を与えた。例えば彼は、タクラマカン砂漠横断という危険な旅で、水をきらして5日間死線をさまよい、従者や駱駝を次々に亡くすという苦い体験をしたが、こうした体験談は、後続の探検家が同じ間違いを犯すのを防ぐことに役立った。また、彼が広大なタリム盆地を旅して描いた地図は、砂漠の奥深くに眠る古代都市への道しるべとなった。彼は自らの生死をかけて、中央アジアの砂漠を探検した開拓者なのである。

調査の名人:スタイン

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ヘディンが拓いた道をたどってタクラマカンの遺跡へ向かった最初の考古学者は、マーク・オーレル・スタイン(似顔絵(5))である。スタインこそ、ヘディンの探検を自己の探検調査にもっとも有効に活用し、その成果を挙げた人物に他ならない。「考古学的探検家」とも自称したスタインは、中央アジアにおいて考古学的な本格調査を初めて試みた人物で、砂漠に埋もれた遺跡の発掘という前例のない調査を手探りで進めていった。

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スタインがヘディンの情報を活用した例は、第1回探検(1898~1900)におけるダンダン・ウィリク(6)の発見に見ることができる。彼は西域南道のコータンにおいて古都址ヨートカン(写真(7)ヨートカン出土の塑像(8))を発掘しつつ、部下に遺物を購入させたり、遺跡に関する情報の収集につとめさせたりした。そして、土地の宝捜し人からダンダン・ウィリクと呼ばれている廃墟こそ、ヘディンが発見したあの「古代都市タクラマカン」に他ならないことを確信した。そうとわかれば、やるべきことは決まっている。彼はヘディン作成の地図に従って、迷うことなくそこにたどり着いたのだった。

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他にもスタインがヘディンから得た情報を活用した例がある。スタインが第2回探検(1906~08)において楼蘭を発掘した時にも、ヘディンが楼蘭を発見した際に作成した地図が非常に役立った。スタインは、ヘディン作成の地図がいかに正確であるかを称えている。そしてスタインは、地図ばかりでなく案内役にも気を配った。ヘディンの探検において案内役を担当した現地人を探し出し、彼の探検のための助手として雇ったのである。

スタインはヘディンから探検に関する知識も学んだ。探検家として厳しい砂漠の探検を成功させるための基本知識を教えてくれたのは、ヘディン自身の苦い体験だった。砂漠の奥地深くにある遺跡を調査できるのは、水を氷として運べる冬期に限られるという知識、遺跡の謎を解き明かす資料となる文書を探索するには、最初に発見した人物に褒賞金を出す方法が有効であるという知識…。スタインは先人の具体的な体験に学びながら、慎重に探検の準備を進めていった。

さらにもう一件、お願いしたいことがあります。スウェン・ヘディンの文から、携帯用鑿井機があれば、砂漠における作業の苦労が、大いに軽減されることがわかりました。……そのノートン式携帯用鑿井機は、サハラ砂漠においてアビシニア戦争の際にも、またフランス探検隊遠征の際にも使用され、重宝がられたようです。鑿井能力三〇フィートのノートン式装置について、おおよその重量ならびに価格を、是非知りたいと思っております。できるだけ軽く、しかも目的に適ったものを入手しなければなりません。……鑿井機を打ち込む土は、粘土層を含む砂地であると思われます。(『考古学探険家スタイン伝』(上)p.118より)

こうした過去の情報に加え、スタインは現在の情報についても常に気を配り、自己の探検計画に取り入れていた。中でも重要な情報源は、カシュガル在住のイギリス領事マカートニーだった。マカートニーが豊富な情報を持っていたのには、以下のような事情がある。

当時、外国の探検隊が中央アジアに入るには、カシュガルのロシア領事館かイギリス領事館を訪れ、そこで諸々の許可をとるなどの便宜を計ってもらう必要があった。ロシア領事ペトロフスキーは、現地の事情に通じた学識ある人物ではあったが、尊大でつきあいにくい人物でもあった。そのため各国の探検隊は、もう一人の領事であるイギリスのマカートニーを頼ることが多くなった。政治的理由から、両領事館ともそれぞれ中央アジア全域にわたる情報網を張り巡らしていたのだが、マカートニーはそれ以上に各国探検隊に関する情報を自然に入手できる立場にあったのである。

イギリスの考古学者であるスタインは、イギリス領事のマカートニーから情報を仕入れるのに有利な立場にあり、マカートニーを通じて各国探検隊の動向を把握しながら、彼自身の探検計画を練っていた。

(ドイツ隊の)一行が北のオアシス、クチャで立ち往生しているのを知り、ホッとしています。私がロプ・ノールに着くまで、土地の守り神とグリュンヴェーデルの気質により、一行がそこに引き留まるよう祈っています。私はいつも各隊の不利な点にのみ執着しているようです。……ペリオとフランス隊は春にはフランスを出発の予定です。ロシアのルートがその時もまだ復帰していないようにと、意地悪くも願っています。……(『考古学探険家スタイン伝』(上)p.297より)
マカートニーは私の出発の準備に非常に精力的に手を貸してくれます。……今日に至るまでフランスのライバルは姿を現わしていません。……ドイツ隊はコルラ辺りにいて、中国に行くかインドに行くかまだ決めていないようです。マカートニーはもちろん彼らの計画や動向を監視しています。(『考古学探険家スタイン伝』(上)p.307より)

スタインの遺跡調査はこのように、先人の体験に学んだ綿密で周到な準備と、マカートニー経由の他国探検隊に関する情報収集のうえに進められた。その徹底ぶりは、彼の探検準備期間が他の探検家に比べて格段に長いことからも推察できる。

ただしスタインは他人の情報を活用したばかりでなく、自身も多くの記録を後世に残した。彼の調査は砂漠の中での発掘という制約の多い困難な状況にあったにもかかわらず、遺跡地図や遺構のプランを必ず作成して発見遺物の出土地をすべて記録するなど、驚くべき正確さをもってなされた。そしてスタインは、調査の成果を逐一、詳細な調査報告書にまとめあげて出版した。これは同時代の中央アジア探検家たちの中でも特筆すべき成果である。

壁画のコレクター:ル・コック

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スタインに続いて中央アジアの発掘調査に乗り込んだのはドイツ隊で、彼らは主に西域北道のクチャやトゥルファンで調査を行った。その探検の中心人物となったのがアルベルト・フォン・ル・コック(似顔絵(09))である。

ル・コックは当初、ベルリン民族博物館の無給研究者に過ぎず、ドイツ隊の第1回探検(1902~03)には参加すら許されていなかった。ところが、第1回探検の後、隊長のグリュンヴェーデル(ベルリン民族博物館インド部部長)は病気、フートは急死という不慮の事態が起きたため、急遽ル・コックが第2回探検(1904~05)に抜擢されたのである。

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ル・コックはバルトゥスと二人でベゼクリク千仏洞に向かい、そこで保存状態のきわめて良い壁画を発見して、ほとんど余すところなく切り取った。彼らは続いてキジル石窟でも壁画(10)を大量に切り取った。この壁画の切り取りを主導したのはル・コックであるが、実際の作業を担当したのは船乗り出身の器用なバルトゥスであった。せっせと彼らが切り取った壁画はベルリンに送られ、目覚しい「収穫」として高く評価されるとともに、ベルリン民族博物館を飾る一大コレクションとなった。

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しかし、こうしたル・コックのやり方に対して、彼の上司であり本来は第2回探検でも隊長を務めるはずであったグリュンヴェーデルは、学術的見地から反対を唱えていた。グリュンヴェーデルは、壁画は遺跡の全体像の中で研究することにこそ意義があり、壁画を切り取って他の場所に移管することは掠奪行為に等しいと考えていた。彼はむしろ、実物は現場に残し、博物館での展示を目指すのであれば複製品をつくるべきで、そのためにも精確なスケッチ(11)測量(12)、科学的観察を主とした調査をやるべきだと主張していたのである。

のちに同地を訪れたスタインやぺリオも、こうしたル・コックの調査方法に対して眉をひそめている。ただしル・コックが持ち帰った壁画は、西域美術研究における重要な資料となっているのも確かである。彼が第一次世界大戦後のインフレによる資金難のなかで苦心しながら出版した大型の豪華図録は学術的にも貴重なものであり、また彼はベルリンにおける収集品の整理と展示にも貢献している。

天才的スペシャリスト:ぺリオ

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フランス隊は中央アジア探検に遅れてやってきたが、その隊長に任命されたのが27歳のポール・ぺリオ(似顔絵(13))である。彼は22歳という若さでハノイのフランス極東学院の中国語教授になった新進気鋭の中国学者で、中国語の読み書きに不自由しないだけでなく、中国の歴史や文化に対する深い素養を備えているという点で、他の探検家にない強みをもっていた。

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フランス隊は発掘競争に加わるのが遅かったため、スタインやドイツ隊のように、手付かずの遺跡を手当たり次第調査するというわけにはいかなかった。ところが実際には、ぺリオはトゥムシュク(トゥムシュク出土の仏坐像(14))において、他の競争相手が見落としていた仏教寺院址で大量に文書を発見するなど、十分な成果を挙げることができたのだった。これはぺリオが13ヶ国語を操ったという優秀な言語学者でもあり、かつ発掘する対象について高い専門知識を有していたことによる。

語学に対するぺリオの天才的な能力は、彼が中央アジア探検に向かう途中、荷物を待つためタシュケントに滞在した約一ヶ月の間に、その土地の土語である東部トルコ語を習得してしまったという逸話からもうかがうことができる。またぺリオは並外れた記憶力の持ち主でもあったらしく、彼のリセ時代からの旧友であり、中央アジア探検の同行者でもあったルイ・ヴァイヤン(陸軍軍医。探検では地図作成、博物学標本の収集などを担当)は次のように書き記している。

ぺリオは簡潔な記録を残しているが、その細目を漏らさない正確さは、フランスでそれを受け取ったものを驚嘆させた。およそ図書館などあろうはずのない砂漠で、ぺリオはいったいどうして特定の事実や原典の文章を思い起こすことができるのかわからなかった。(『シルクロード発掘秘話』より)

これほど非凡な才能に恵まれていた彼であったが、調査で集めた資料の分類や整理は折悪しく起った第一次大戦により頓挫し、ついに調査報告書を出版することはなかった。敦煌莫高窟研究の必須資料となっている6巻本の写真集『Les grottes de Touen-Houang』(Paris 1920-24)にも、彼の文章はごく簡単な序文以外添えられていない。

敦煌蔵経洞:情報に対する行動が分けた明暗

こうしてタリム盆地の各地で調査を始めた各国探検隊は、現地の人々から得られる情報や出土品などを参考にしながら、調査地を決定していった。しかし、現地の人々から得られる情報には時として誤りやウソが混入しており、信用に値する情報の見極めが難しかった。そして、こうして入手した不確実な情報に対する判断とその後に続く行動が、探検家たちの明暗を分けることも少なくなかった。それをもっとも象徴的に示すのが、敦煌蔵経洞で発見された文物をめぐる一連の出来事である。

大チャンスを逃したル・コック

1900年に敦煌莫高窟(15)の蔵経洞から発見された大量の文書類は、1907年にスタインがまず買い取りに成功、翌年にはぺリオも購入し、それぞれ自国に持ち帰って国内外に大きな反響をもたらしたことは余りにも有名である。ところが、この蔵経洞発見の噂を最初に耳にしたのは、実はドイツ隊のル・コックだった。スタインが敦煌を訪れるより2年も早い1905年に、ル・コックはすでに滞在中のハミで商人からこの情報を聞いていた。

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彼はちょうどその時、具合の悪いことに、上役のグリュンヴェーデルがまもなくカシュガルに着くとの電報を受け取っていた。もしこの電報に従うならば、ハミから片道17日もかかる敦煌を訪れる時間的余裕はなかった。しかし、グリュンヴェーデルはこれまで何度となく直前になって予定を変更していたから、今回も彼が確実にやってくる保証はなかった。彼の到着の遅れを見越せば、敦煌に行く時間はある。とはいえ、彼が必ず遅れるという保証もまたなかった。

しかもル・コックにとって、蔵経洞発見の噂を信じきれないこともまた悩ましい点だった。彼はこれまで、現地の人々の話を信じては裏切られるという苦々しい経験を繰り返していた。仮にグリュンヴェーデルの出迎えに間に合わないかもしれないという大きな賭けをして敦煌に行ったとしても、空振りに終わる可能性があった。そしてグリュンヴェーデルの出迎えにも遅れてしまっては、まさに踏んだリ蹴ったりである。

彼は考えあぐねた挙句、「いくぶんやけっぱちになり、運を天に任せてシナの両貨幣を投げて決めることにした。表なら勝、裏なら敗!ところが裏すなわち文字面が出たので、私は馬に鞍をつけ、カシュガルに向け旅立った」(『中央アジア秘宝発掘記』より)。こうしてル・コックは、蔵経洞の文書類を入手する機会を永遠に失ったのだった。しかも皮肉なことに、この時もグリュンヴェーデルの到着は遅れ、彼がカシュガルに現れたのは予定より2ヶ月近くも後のことだった。

機敏に行動したスタイン

一方、スタインもまた、蔵経洞に関する噂を商人から聞いた。しかしル・コックの場合とは異なり、スタインがその噂を聞いたのは敦煌だった。蔵経洞のある莫高窟とは目と鼻の先であったから、スタインは直ちに噂の真偽を調べに行くことができたのである。

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彼にとって莫高窟とは、もともと少し見学すれば十分という程度の場所であり、敦煌での主目的は北部の長城遺跡(地図(16)写真(17)現在の写真)の調査にあった。しかし噂をとりあえず確かめようと思ったスタインは、当初の予定を変更して莫高窟に向かい、石窟を管理していた王円籙(おうえんろく)という名の道士に会おうとした。最初の訪問時には、彼はあいにく托鉢に出ていて不在だったので、若い仏僧から巻物を一本見せられただけで訪問は終わった。そこでスタインは、当初の計画通り北部の長城遺跡(玉門関(18))の発掘に向かい、それらが漢代に築かれたものであることを示す多数の文書や遺物を発見した。

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それだけでも調査としては十分な快挙ではあったのだが、噂が気になっていたスタインは、日を改めて再び莫高窟へ向かった。そして今度は王道士に会うことができ、彼と文書をめぐる駆引きを始めることになった。実際の文書を見てその価値を認識したスタインは、これを購入して本国に持ち帰ろうと考えた。最初のうち、王道士は文書を売ることを渋っていたのだが、スタインは唐代の玄奘三蔵を自分の「守護聖人」と呼んで尊敬している話を持ち出して王道士の態度を軟化させることに成功し、長い説得の末、ついに数千点にのぼる古写本や仏画を手に入れた。真偽の定かでない情報を入手して機敏に行動したスタインは、こうして蔵経洞でも成功を収めたのだった。

しかしスタインにも弱みがあった。確かに彼は大量の文書を購入することができたのだが、そのリストからは資料的価値の高い文書がいくつも漏れていたのである。スタインは蔵経洞に直接立ち入ることができず、目にするのは運び出されてくるものに限定されていた。そして何より、スタインは中国語が読めなかったので、文書を読んでその質で選別するということができなかった。こうしてスタインが取りこぼした質の高い文書を手に入れることができたのは、実際にはその後からやってきたペリオだったのである。

才能を存分に活用したペリオ

スタインが蔵経洞で大量の文物を購入し終えたころ、ペリオはウルムチに滞在していた。当時ウルムチには、義和団の乱によって流された光緒帝の従弟載瀾(サイラン)がおり、彼と交流のあったぺリオは、餞別として蔵経洞から発見されたという唐代の法華経一巻を贈られた。それ以前に、すでにこのウルムチにおいて蔵経洞の噂を耳にしていたペリオであったが、この時に初めてその話を裏付ける実物を手にしたのだった。中国語を流暢に操り漢籍を自在に読みこなすペリオは、その価値を一目で見抜き、敦煌に直行した。

莫高窟に着くやいなやペリオはたちまち王道士と打ち解け、3週間にわたって蔵経洞に籠もり、一本のろうそくの光をたよりに自ら約1万5千点に及ぶ文書に目を通した。彼はどんな細かな断片も漏らさず、紀年のあるものや各種古代文字による写本など、重要と思われるもののみ約5千点を選りすぐって購入した。彼の卓越した語学力と、中国の文化や歴史に対する学識の深さに基づいた収集品は、今も優品ぞろいとして知られている。

このように探検家たちの成果は、さまざまな要因が重なり合って明暗を分けた。スタインは時の利は得たもののそれを十分には活かしきれなかった一方、ぺリオは二番手ながら専門知識を活かして資料価値の高いものをごっそり入手することができた。そしてル・コックは、本来なら一番手になれるところにいながら、タイミングが悪かったために敦煌文書を入手する機会を失ってしまい、逃した魚の大きかったことを後になって悔やんだ。

手遅れだった中国の対応:外国人による探検の終焉

スタインやぺリオが敦煌において相次いで文書類を購入していたころ、中国はこれらの文書類の重要性にまだ気づいていなかった。気づいた時にはもはや手遅れ。中国の貴重な歴史文化遺産は国外に持ち出されてしまっていた。この最悪の損失に気づいた中国は、やがて外国人の発掘調査を警戒して堅く門戸を閉ざすようになる。

もちろん、敦煌の石窟から文書類が発見されたという報告は、すでに敦煌の役所に届けられており、そこから甘粛省の省都である蘭州の役所(藩台衙門)にも伝えられていたのである。ところが、敦煌出土の文書類をすべて蘭州に輸送するには馬蹄銀5〜6千両の輸送費が必要となるので、その費用を惜しんだ蘭州の藩台衙門は敦煌の衙門に対して、現地でそのまま保管するように通達を出した。こうして発見から7年もの間、敦煌文書は特に関心をもたれることもなく、石窟の中に積み上げられたままだった。

スタインがやってきたのは、このように文書が放置されていた時期だった。文書の価値を知らない王円籙は、実際の価値に比べればほんの僅かな金額で文書を売却し、その費用を彼自身が精魂を傾けていた石窟の修理に充てたのだった。続いてペリオも大量の文書を購入し、それを本国へと送った。

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ペリオは購入した蔵経洞の文物を船積みして送り出すと、それらの収穫品が無事中国を離れたことに安堵したのか、文書のいくつかをもって南京、天津、北京(19)を歴遊し、著名な歴史学者の羅振玉を始めとする中国人学者たちにそれらを披露した。これを見て大きなショックを受けた中国の人々は、ようやく事態の重大さに気付いた。清朝政府は残された敦煌文書を守るため官令を出し、1910年には北京の京師図書館(中国国家図書館の前身)に移管する措置を取った。

ところが残余文書の散逸は、こうした官令にもかかわらず、その後もさらに進行していった。運搬過程では、蘭州など各地の地方官吏が、北京到着後は、接収に携わった李盛鐸らが、文書を抜き取ってしまった。また、敦煌文書はその後もかなりの量が現地に留め置かれていたために、1912年には日本の大谷探検隊(橘瑞超と吉川小一郎)が写経を数百巻、1914~15年に敦煌を訪れたロシアのオルデンブルグが計1万余点、まだ敦煌文書を買い取ることができ、それらの文書も中国の地を離れていった。

こうした敦煌文書の流出は、中国人学者の非常な憤りを引き起こした。そして「考古学的」調査という名のもとに、それまで外国探検隊がタリム盆地において行ってきた発掘と遺物の持ち出しは、遺物剥奪行為とみなされるようになってきた。スタインの調査は、その後にほとんど何も目ぼしいものを残さないほど徹底したものであったし、ドイツ隊もベゼクリクとキジルで徹底的に石窟壁画を切り取っていった。後者の行為は特に非難を集め、外国探検隊に対する視線は厳しくなった。

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そして外的要因が中央アジアの探検活動の低下に拍車をかけることになった。第一に、それまで中央アジアに探検隊を送り込んでいたヨーロッパでは、第一次大戦が勃発して探検どころではない状況となっていた。第二に、中国国内ではこれ以上の遺物の流出をとどめようとする機運が高まると同時に、1925年に上海(20)で起きた英国人警官の中国人学生射殺事件が、外国人全般の排斥運動を激化させていた。

こうして、スタインが第3次探検(1913~16)を終えた1916年以降、発掘競争はぱたりと途絶えることになった。アメリカのラングドン・ウォーナーは、1923~24年にカラホトを、1925年に敦煌を訪れているが、敦煌で薬剤による壁画の剥離を試み菩薩塑像1体を持ち出したことが特筆されるくらいで、他はほとんど目立った活動ができていない。

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その2年後、中央アジア探検の開拓者ヘディンが約20年ぶりにタリム盆地に戻ってきた。主な目的は「さまよえる湖」説の実証で、今回は考古学者ら専門家をつれた組織的な科学的調査を目指すものだった(ヘディン(右)と考古学者ベリマン(左)(21))。ところがヘディン隊による単独調査は許されず、中国との合同調査隊(Sino-Swedish Expedition、西北科学考査団)という形で実施されることになった。そして調査隊が西北辺境のエチナ河周辺で発掘した、前漢後半期を主とする大量の木簡文書(居延漢簡)は、中国国外へ持ち出すことを一切禁じられた。外国の探検隊が自由に発掘することのできる時代はもはや過去のものとなっていた。タリム盆地を舞台とする各国探検隊の発掘競争に道を拓いたヘディンは、奇しくもその幕引き役をも演じることになったのである。

さらに詳しく知りたい方へ

2005年11月20日 発行
執筆: 大西 磨希子・北本 朝展
イラスト: マイヤー 恵加(図4、図5、図9、図13)

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おことわり

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