National Institute of Informatics - Digital Silk Road Project
Digital Archive of Toyo Bunko Rare Books

> > > >
Color New!IIIF Color HighRes Gray HighRes PDF   Japanese English
0311 羽田博士史学論文集 : vol.1
羽田博士史学論文集 : vol.1 / Page 311 (Grayscale High Resolution Image)

New!Citation Information

doi: 10.20676/00000267
Citation Format: Chicago | APA | Harvard | IEEE

OCR Text

なるべきこと西域記週傳によりて証し得べし、其の國概して因ると云せども、此の如く真鹵元年に既に頡利可汗
に背きしなれば、其の跡及蕃附は真鹵元年以前のことなや疑無し。
 慈恩等三藏傳には、支罪が唐を出発したる薬護城に彼の浚厥
の薬護可汗二藏傳には、支罪が唐を出発したる薬護城に彼の浚厥
ば真鹵四年に玄奘が達らた記せり、然るに大唐西域記縁鳴國の條には「近浚厥薬護可汗(三三、四月頃らちん)に彼の浚厥
り、然れども又同年即ち四年には四浚厥の屈利俟縦可汗として薬護可汗なるべく、続薬護可汗に汗云々」と見ゆ、されなり、然れども又同年即ち四年には四浚厥の屈利俟縦可汗として薬護可汗なるべく、続薬護可汗に汗云々」と記せる誤な
唐に請ひしことと、新唐書突厥傳、册府元龜和親篇等に記さるれば、其の死が真鹵四年玄奘の訪問後に立りしこと疑きが
如し。

〔九〕馬靈山の位置は尚かにし難けれど、此の戦に敗れたる浚厥の軍が天山に逃れたることよりすふれば、長客個人が和林河の西北
 謀の地にありと記せる頡山即ち今蒙古語に