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0607 羽田博士史学論文集 : vol.1
羽田博士史学論文集 : vol.1 / Page 607 (Grayscale High Resolution Image)

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doi: 10.20676/00000267
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用模倣する事も有るし、また或る時代の流風形式の特徴といふものも、實は地方的に考へると、案外共通點を
失つて居ることも屢々認め得られるからである。勿論大體に於ては、時代の前後を鑑別する
上に於て、第一の手懸りたることを失はないが、少くとも多少の條件を附して考へて見なければならぬ際に、
この千佛洞の壁畫の類に、繪と共に書かれたる銘文の存するものの、少くないことは、一方からいへば或る時代及び地
方の美術の形式の特徴を定むる上に役立つものであり、他方からいへば既知の時代的地方的特徴の確實であるか否
かを知る武金石と認められる譯である。處にベリオ氏によつて刊行を完成した敦煌千佛洞第三集録百三十二圖から百四
の方面に亙つて得らるべき智識の、決して少くないことを認め得るのであらう。例へばその第三十三圖には、多數の男女の立像
十九圖に亙つて、ベリオ氏の所謂第七十四洞の壁畫が出て居るが、その中の第三十三圖には、多數の男女の立像
が書かれ、題して大明大寶于闐國大聖大明天子と記され、此の繪の造営に當つて供養した王及びその眷族を書い
たものと思はれる。此の繪を紹介したものに、于闐王等の供養の様を描いたものであらうと述べたのがある。成題
名の女字通りで間違のない所ではあるが、これは何等時代上の説明を與へてないものである。或は考へ
て見れば、その作製の時代についての疑は、籠と何等の説明を興へられてないのかも知れ
ない。しかしながら五代史四裔附録には于闐の條を見ると、「晉天福三年〔938 A.D.〕には荷在位した人であるが、五代の晉の時代
記されてある。この李聖天といふ人は、宋の建隆三年〔962 A.D.〕に于闐國王と稱した証左は無いし、また宋の貢宗の大中祥符年間以後は、于闐の王は皆黒韓王と
より外には于闐が大寶于闐國と稱した証左は無いし、また宋の貢宗の大中祥符年間以後は、于闐の王は皆黒韓王と
稱して居る。黒韓といふのは可汗の異譯で、彼にこの地方にトルコ族の勢力の及んだことを証明するものである。

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