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0066 羽田博士史学論文集 : vol.1
羽田博士史学論文集 : vol.1 / Page 66 (Color Image)

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doi: 10.20676/00000267
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見る町からす、これ此方向を保ちて沙陀を出て一西北行して一驛を經、魚兒澤に至るとなりも、魚兒泊の位置は撫
州昌州よりさまに東北にあたり、こよより北行しては泊に出づる能はされはなり、されは沙漠中をも大體に於て東
北の方向をとりしものと認むべく、實に長春眞人は此地より東北行せしことを云へり、元史太祖本紀に答兒澤といひ、
遠縣有大魚澤』といふものにして、同史特詳諱傳に答兒澤子云ひて、魚兒澤は金史地理志に『柔
三百里と記せり、ブルッェワルスキ Przewalsky 等の親しく踏査したる地にして、東經百十七度、北緯四十三度
に位し、今蒙古に Taa-tnor と稱するものなり(Dalai-nor ともブレッジナ
イデル Bretschneider の云ふ處なり)Tono よりまた沙漠を斷ちて富速音節も黒山に出てたるものにして、
黒山はパラチウスの言へるか如くの Tono 山に外ならざるべし、これ德輝記載の光景とパラチウスの目撃せ
地形とか、仰細に相合するを得べし、これは德輝記載の光景とパラチウスの目撃せ
を取りしものにして、か自沿之西北行と云へる森陸連即ちにのみには、頗ふる解釋に苦しむ所なれとも、大體の理由よりし
て之を信ぜさるを可なす、此里山の西北行しては森陸連即ちにのみには、頗ふる解釋に苦しむ所なれとも、大體の理由よりし
にして蒙語に満れる意味を云ひ、此地は朝今の Tola 河なり、此河は西行にて地より西北行四驛
して蒙語に満れる意味を云ひ、此地は朝今の Tola 河なり、此河は西行にて地より西北行四驛
に出たり、獨刺は朝今の Tola 河なり、此河に沿ひて之か北に注圓すて、淫は Itun より
こゝに離調台時代に設けたる Ulegtnor、獨刺に彼は西行に招きに應して、張德輝か支那よりも是迄の道筋にして
去ること(南に)百餘里なりといへり、以上は即ち蒙古の招きに應して、張德輝か支那よりも是迄の道筋にして
こゝに離調台時代に設けたる驛路なりと云はんとする所なり、之を長春の行路と比するに、張德輝か支那よりも是迄の道筋にして
に至るの間は殆んど全たく之に合するを知る、只張德輝は桑乾河の上流に沿ひて北行し『山樣面西 乃德興府道也』
『山樣面西 乃德興府道也』 Taa-tnor