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0162 羽田博士史学論文集 : vol.1
羽田博士史学論文集 : vol.1 / Page 162 (Color Image)

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doi: 10.20676/00000267
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二二四

には、沙漠等以外の地にては
一日中に二回・三回もしくは四日もしくは五日の旅程に七站を設けたりしが如し。而して此の如き荒原、沙漠等以外の地にては
るよりし考ふれば、聯合設立の使ある地、もしくは交通頻繁の地方には、多数の站の設置せられたるものなり
しを認知すべし。

三 元 朝 の 站



漢北時代成吉思汗の時に基を開き、大宗窩濶台汗の代に稍・発達せし蒙古の站赤は、世祖忽烈の支那に君臨し
て元朝の制度渐に至りて、軍事交通の必要よりと共に、駅站の制度渐く完備するに至れり。其の制の管轄は、先づ中書省官兵部の司とるに因るものなり、
站務を稱するに至りて、軍事に変ふるものを置きて之を政局なる目的の一としたるに至元十三
蓋しこれ驛站の所轄及び站官 元朝の官兵部の司とるに因るものなり、
べし。其の後至元七年匹の至りて、新に諸站稽察使なるものを置きて之を政局なる目的の一としたるに至元十三
年に至りて、また通政院と改名し、大都即ち北京と上都との両院に分れ、同二十九年には江南にも分院を生ずるに
至れり。然るに武宗の至大四年に至りては、通政院官また之を立てて蒙古に治せざるよりして、中書省の議により復たび兵部
の所轄に歸し、通政院は一度廃滅せしめ、夏に仁宗の延祐
七年稽に古に復りて蒙古及び漢士の站を初め兵部に司どりし頃より
て各站に總站官なるものあり、管内の驛站のことを總べしが、至元七年に至りて之を廃し、ただ蹄路の總管府内