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0220 羽田博士史学論文集 : vol.1
羽田博士史学論文集 : vol.1 / Page 220 (Color Image)

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doi: 10.20676/00000267
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羨、唐省首の藥語逃亡に關するものと同じ(注3)なれば、此等の三者が同一人なることは勿論なり、次に述ぶるが如く天寶の初め之に 羨
篇に九姓葛祿の部賞と共に、左右の藥護及び册府元龜に依れば、舊唐書及び册府元龜の名を用ゐたるは 羨護の紀功碑にも磨延
羅は葛羅祿の部賞と稱したるものなれば、骨力藥羅と記せるものに外ならず、 羨
由るなるべし。藥羅の死は唐寶妻生存し、然れど此の年の中に死したりと思はるる記事あり、即ち同碑の北面第十
暖の父即ち藥羅が猪の年(天寶)に生存し、Ramstedt 氏の譯に從へば
一行目より藥羅を猪の年にかけて(天寶)

Im Schweinsjahre (schlug ich sie)…………Den Täi-Bilgä-Turuk ernanute er zum Jabgu. Nach diesem
starb mein Vater, der Kagan.

と記せり、此の猪の年なる文字と「Täi-Bilgä-Tutug(大毗伽都督督に當る語なり)」を藥護に任命し、其の後余が父は
と考へ「合すれば、思ふに必ず此の兩行は同一年中の記事にて、兩史料は好く相一致せるものと見るべく、此の可汗の死を記せること
死せり」と記せる一節との間には文字の闕落ありと難、(大毗伽都督督に天寶六歳丁亥の年に、此の可汗の死は
Ramstedt 氏は、Schlegel 氏の示せる支那の史料に依れば、此の可汗の死は七四六年(天寶五歳)なれど、碑文化
面第十一行は此の可汗が猪の年に両生存したことを記せりとて、兩史料の記事の修正下に、藥羅が死たるものと見たるに悉く匈奴
Schlegel の記する所は何等確かな根據に基きたるには非ず、唯此の邊疆の史料に依れば、此の時日は藥羅の子に
の地を得たなる記し、之に続きて其の死を記したるを以て、又當唐唐紀傳には「乾元二年夏四月、廻紇紇伽闕可汗(卽ち葉羅繼)死」と記せども、此の時日は藥羅の子に過ぎ