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0230 羽田博士史学論文集 : vol.1
羽田博士史学論文集 : vol.1 / 230 ページ(カラー画像)

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doi: 10.20676/00000267
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古に於て記むるが如きは、猶だ注意すべきことにして、此の場合に於る兩徒も、婆羅が九姓諸部を統一したる結果に外ならずと曰ふべし。

此の翌年天寶四載には婆羅は突厥の白眉可汗を攻めて之を殺し、逐に全く突厥を亡し、こと前に見たるが如し、新唐書回鶻傳に
は、「尺地廣、東極室韋、西金山、南控大漠、盡得古何奴地」と記せり、されば大概漠北のアルタイ山脈以東、興安嶺山脈以西の地は、略ぼ其の勢力の下に帰するに至りしものと見なざるが如ず、載九姓を統一したる後の三年間に於て作られる所と見なざるが如ず、
新唐書回鶻傳に
は、「尺地廣、東極室韋、西金山、南控大漠、盡得古何奴地」と記せり、されば大概漠北のアルタイ山脈以東、興安嶺山脈以西の地は、略ぼ其の勢力の下に帰するに至りしものと見なざるが如ず、果して然らば、かゝる形勢は天寶三

第二章 磨延啜
(磨より與へたる徽號を英武威遠と曰ふ)
(登里囉汨沒蜜施頡翳德徵施毗伽)可汗の時代

新唐書回鶻傳に依れば、婆羅の後を繼ぎしものを其の子磨延啜と爲す、舊唐書迴紇傳には此の可汗を記さず、反りて乾元二年(七五九年)「夏四月迴紇伽鄰可汗(婆羅、死)と記し、此の時迄婆羅の位に在りしことを示せど
も、唐會要及び冊府元龜職貢篇には、懷仁可汗即ち磨延啜(普羅)が天寶六載(七四七年)に至死すや「子磨延啜立、國人號葛勒可汗」と記せり、舊唐書本紀にも乾元年七月「丁亥制上皇第二女安國公主出降英武威遠と曰ふ」が天寶六載(七四七年)に至死すや「子磨延啜立、國人號葛勒可汗」と記せり、舊唐書本紀にも乾元年七月「丁亥制上皇第二女安國公主出降英武威遠徵施毗伽」と記し、此の時迄婆羅の位に在りしことを示せど

武威遠徵施伽可汗」と記せり、國人號葛勒可汗」と記せり、英武威遠可汗といふは、唐より磨延啜に與へたる徽號にして、婆羅の有したるものに

一九二