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0235 羽田博士史学論文集 : vol.1
羽田博士史学論文集 : vol.1 / Page 235 (Color Image)

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doi: 10.20676/00000267
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を察知するに難からざると共に、唐が其の担当部隊はざるを容れしに止まず、之によりて好みを深くし、新たに接助を得て、英武威遠毗伽可汗の冊を受け、賊を討せしむるに至れり、翌八月には早く其の子骨咄勒及び宰相等をして三千人
國公主に投し、或は大首領唐の國務繁劇の如き時に当り、巧に其の武力を利用して、一面には之を援け、他面には之
の為に如く。此の後磨延啜の唐に対する態度は翌年四月死役の時に至る迄変化無く、而して其の軍は郭子儀に従ひて、唐
りしが如く。或は三嬢人を遣して婚謝せしめ、一面には其の一代の間未だ唐を侵すには
を察制し、遂に其の公主を迎へ、不拔の勢力を持続したるものなりとす、此の間注意すべきことは、回鶻が唐に対らざりしことなり、又磨延啜は其の子若しくは部下の将士をして之に従事せしめ、自ら軍を率て南方に向かる照度を持続せしものとより至當元年七月以後に於る可汗の在世は僕が三年に之に従事せざる事情の存したるにはほ非ざるか、然も此の間かゝる照度を持続せしものは、或は北に当て何等記載する所無けれども、唯舊唐書廻紇傳に「乾元元年(七五八年、戊戌)九月中廻紇使
大首領蓋將「軍」等、謝公主下降、兼奏敵昆五萬人」と曰ひ、新唐書回鶻傳に「乾元元年、(七五八年)自是不能通中國」と見え、別に又葛邏禄との
謝書、并吐蕃敵昆功」等とし、同書點斯傳に「至德後葛邏禄竇盛、與回紇爭所破、徒十姓可汗至放地、盡有碎葉・相羅斯諸城
關係に就きては、新唐書葛邏禄傳に「至德後葛邏禄竇盛、與回紇爭所破、

一九七