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0236 羽田博士史学論文集 : vol.1
羽田博士史学論文集 : vol.1 / Page 236 (Color Image)

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doi: 10.20676/00000267
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然限回紇、朝會不能自達于朝」とし、唐會要葛邏祿の項にも殆ば同様の記事を載せたれば、当時間が此等の葛邏
蘇及び黠戛斯と相学びたりしものなることは疑ふ可らず、次の可汗至羽の立つに及びては、間も無く自ら師を率ゐ
て南せしに恒到せば、或は磨延寵の時代には此等北方諸部との爭の爲に、其の行動を制せられたるには非ずやとも
思はる。

此の推察は磨延寵に關して、單に需宗卽位以後に於る事件のみを記せる漢史の記載に基づき、試み見たる所なり
が、其の後 Stein が附近より發見せられたる此の可汗の紀功碑を見るに及びて、此の可汗の一代の記事は今殆ど全く近
隣諸部との雪を以て終れるを知り、盛んと上述の推察の誤るべきを疑かなるを得たり、此の碑文の記事は、羊の年も天寶
する所多く、一貫せる安意を抑ふることと甚た困難なりと雖、此の可汗死没の年の前一二年に當る、前として此の間には磨延
年(七四三年)より前にも引きしが如く、鶏の年至德三年(七五七年)に及び、可汗死没の年の前一二年に當る、前として此の間には磨延
暖が、天寶三載(七四三年)には突厥の鳥蘇米施可汗を擒にし、突厥を亡ぼしたること
こと
天寶四載、(鶏の年、七四五年)には三姓葛邏祿(tie g'rtug)が十姓(on on 即ち西突厥の後)に逃れ去りた
天寶三載(七四三年)には突厥の鳥蘇米施可汗を擒にし、突厥を亡ぼしたること
天寶六載、虎の年、七四七年)には此の葛邏祿を討たること(?)
天寶八載?(?)虎の年の前年七四九年の記事、の事と思はるる記事には八姓 Oyuz(šikiz Oyuz)及び九姓 Tatar
(toqz Tatar)と顧ふ Selenga 河邊にて戦を交へ、之を敗りたること、Tardus 及び Tolïs に jabyu と sad

一九八