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0252 羽田博士史学論文集 : vol.1
羽田博士史学論文集 : vol.1 / Page 252 (Color Image)

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doi: 10.20676/00000267
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と記し、新唐書回鶻傳には

是歳〔真元(六年)〕可汗吾少可敦薨公主所毒死……可汗之弟乃自立、迦斯方攻吐蕃、其大臣率國人、共殺篡者、以可汗

と記し、幷府元瓘通好篇及び通鑑の記する所は舊唐書に同じ、此の如く忠貞可汗の死に就きては、兩唐書
之幼子阿啜嗣

の記事に相異る所あれども、然其の弟の自立したることは諸書の記事に単に「是歳」と記して、忠貞可汗の殺害も、一時其の弟の自立したる記事は忠貞書の等しく記する所なり
と、然乍ら此の年四月中の事件の如く思はる、然れども通鑑真元三年の條に即して、「是歳」として、忠貞
し、四月に及びて其の父相が四月中の筆者を殺して立てたりとし、通鑑要には忠貞可汗の死は新唐書回鶻傳によれば阿啜を立てたるを真元十一年(七九五年)四月のことにし、舊唐書本紀及び通鑑
可汗の殺されたるを三月のこととし、册府元龜繼繼篇には真元十年(七九四年)に正しとすべし、何となれば阿啜子無くして死し、國人幸相骨
るものなるべし、阿啜殺可汗の死は新唐書回鶻傳によれば真元十一年(七九五年)四月のことにして、然れども思ふに正鵠を得たる
によるべし、前三者の記する所には、册府元龜繼繼篇には真元十年を以て正しとすべし、思ふに正鵠を得たる
後の兩者の記事は誤しむるや、前三者の記する所には、册府元龜繼繼篇には真元十年を以て正しとすべし、
嗣録を立てゝ位を嗣がしむるや、舊唐書は張惠傑及び册府元龜等に記する所に
と、舊唐書本記、同書は此の事件を阿啜奉誠及び册府元龜等に記する所に
に唐會要本記、同書は此の事件を阿啜奉誠可汗の死に續けて掲げ、同じく真元五年五月のことゝせり、通鑑も亦之に從へり、然
十一年五月と記せるものは、十一年五月を誤りたるものなるこそ然るべく疑ふ無く、從て阿啜の死を十年とせるものも亦要のこと

三二四