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0257 羽田博士史学論文集 : vol.1
羽田博士史学論文集 : vol.1 / Page 257 (Color Image)

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doi: 10.20676/00000267
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兩書の此等の記事は年代に於ても一致せるものなりとす、只舊唐書地理志安西大都護府の條下には「吐蕃寇忿沙陀
廻傾部落、北庭西大都護府下に「貞元三年嘉陷吐蕃」と記し、新唐書地理志隴右道に吐蕃が「貞元三年陷安西北庭」
と記し、同書安西大都護府の條下に「貞元三年吐蕃攻沙陀廻紇、北庭安道無援、逐蕃」と記し、本紀及び吐蕃傳
矛盾したる年月に配したれども、新唐書地理志の此の記事は誤謬に過ぎざること、何等を加ふる無くして舊書を
に過ぎず、然も舊書地理志の此の記事は誤謬に過ぎざること、何となれば、貞元六年は吐蕃に陷り、顏子邊斯奉
誠可否の立ちたる時、顏子逆斯は恰も此の位を認むるに至りしこと、此の職敗れて北庭忠可汗が殺されしこと、
は國に還りて初めて北庭の陷れしものと認め可らざれば、舊唐書廻紀傳同傳の明記する所なれば、「兩唐書同傳
北庭が吐蕃に陷れられしものは真元六年の冬を指せ
此の如く北庭の陷没は真元六年となること疑無ければ、舊唐書廻紀傳は貞元五年の冬宮北庭と曰へるは真元五年の冬を指せ
るものにして、其の吐蕃傳に記する所亦同じ、次に舊唐書廻紀傳に「貞元七年五月」と書き起せる記事あるより考ふれば、其の
復を計りたりと記せども、然も此の一節に續きて直に「舊唐書廻紀傳は十一年秋廻紀斯が其の國の肚丁を悉して之が回
十年と曰ふのも六年の誤なるべく、然も亦同書本紀には「七年秋又悉其丁壯五五萬人、將復北庭、仍召嬰古循行、俟駕
すべて六年の條に収めたり、然者大夫、死者大夫、顏于(于)迦斯給之曰、且興我同至牛根……嘉殺之」と記し、「新唐書本紀には「七年秋楊嬰古を殺したること」も顏
吐蕃・葛祿等所撃大敗、死者大夫、顏于迦斯給之日、且興我同至牛根……嘉殺之」と記し、新唐書本紀には「七年秋楊嬰古を殺したること」も顏
于迦斯が楊嬰古を殺したるを真元七年のことにせり、されば回鶻が真元六年に吐蕃に陷れられた北庭を同復
せんとし、重ねて敗北を見るに至りたるは同年秋の事なりしか、或は其の翌眞七年秋のことなりしかは既に定め難き

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