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0269 羽田博士史学論文集 : vol.1
羽田博士史学論文集 : vol.1 / Page 269 (Color Image)

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doi: 10.20676/00000267
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矚骨没密施合毘伽鶻可汗(固も可汗)と記し、其の前代の可汗即ち慈徳可汗が、少くとも此の時以前に死したるものなることを記せるとも見られ、此の二年五月と曰ふは、大に遡るべき昭鶻可汗の前代に置くべき寶暦元年(八二五年)五月を誤りたるものに外ならざるべし、されば此の可汗に繼ぎし昭鶻可汗の死は長慶四年かの寶暦元年(長慶四年)五月と見ゆ、册府元龜封册篇に敬宗の寶暦三年か四年(寶暦四年)に何となれなるが、此の可汗に繼ぎし昭鶻可汗の死は長慶四年より册したるは、册府元龜封册篇を以て正しとすべきか如し、何と考ふれば、崇徳可汗の死は唐よりこれを封册するに当り、特別の事情の存せざる限り、其の翌々年に於て册命の使を迎

がかく可汗の死する事例に照らせば其の弟、唐書回鶻伝に拠せり、之を册して昭鶻可汗と爲せり、新唐書回鶻伝によれば其の従父かくて長慶四年崇徳可汗を崩ぎ、唐は翌寶暦元年(八二五年)其の弟(三年)其の下の篤に殺され、唐は従子嗣寶暦元年(八二五年)從て子嗣特勤位を嗣ぎ、唐は翌寶暦元年(八二三年)なり、然るに獨り舊唐書は其の廻紇特勤に於て、太和「七年三月、新唐書回鶻伝に及せり、册府元龜等の惑く昭鶻可汗と一致する所

月二十七日薨、已册親弟薩陳特勤、廢朝三日」と記し、又其の本紀に於て、太和七年「夏四月戊午辛西九姓廻紇可汗卒」と記せり、

綖可汗卒」と記せり、其の三月二十七日は前年即ち太和六年(八三一年)の三月二十七日ならざる可らずと思はるゝに、本紀には反りと曰へる矛盾は思ふに木紀が昭鶻可汗の死したる時と誤りたるものに外ならざるべし、又廻紇伝に胡特勤を唐より册したる時、即ち太和七年四月を以て、昭鶻可汗の死したる時と誤りたるものに外ならざるべし、又廻紇伝にこゝに掲

太和七年四月九姓廻紇可汗卒見ゆ、かる三月二十七日即ち太和六年三月二十七日ならざる可らずと思はるゝに、本紀には反りと曰

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