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0284 羽田博士史学論文集 : vol.1
羽田博士史学論文集 : vol.1 / Page 284 (Color Image)

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doi: 10.20676/00000267
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二四六

るより、黒沙檣林と稱せられたるに外ならざる可けれは、大概今の歸
化城の北方七十里許の地と見るべく、田氏が唐書突厥傳に見ゆる
(なた)
黒沙城に就きて、漢人の沙漠の方面に設けたる最終の偵斥たるKei
れ此の沙檣は、Elias、Klaur、Hedin なり)地方より初まれるものなるべし
圖には、別圖を得るものなるべく、参謀本部の編纂に係る東亜興地
るに倣ひ、庫庫伊爾格と配し、即ち摂鎮の北七十里にカーヴィメーターにて測
日ふ黒沙城と別離邦里八里引の所に在り、此の突厥滅亡の後、徳宗の一部が此の地方を占め
觀察と記むるを得べし。突厥滅亡の後、徳宗の時、窒意の一部が此の地方を占め
たりしことは疑なき事實にして、公主を遣へんとせし時、唐書
當り、回鶻傳に「至振武、烏宸草所鎭、聴を蓄て「敗死」と記せるが如きは、
なり、那顔殺が何時幽州を侵さんとして、張忠武の弟、仲至の爲に大
回鶻傳に「至振武、烏宸草所鎭、聴を蓄て「敗死」と記せるが如きは、
敗を蒙るに至りしか明かならず、通鑑是之を浸然會目、年五月
の條に擊たれ乃、註記には「諸書皆不言仲武郭諾顔殺月日、故附于