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0362 羽田博士史学論文集 : vol.1
羽田博士史学論文集 : vol.1 / Page 362 (Color Image)

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doi: 10.20676/00000267
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三三四

〔一四〕氏が此の如く碑文と所書とを対照し、碑の最後に見ゆる可汗の名を対照し、碑の最後に見ゆる可汗即骨咄祿慢僕可汗の時に此の碑が建てられたものなりと見たるは、研究の方法を得たるが如く見ゆれど、然も此の対照比定の間には誤謬の存せるものの交ぜられたることを、殆ど今は切らるべきことに非ず、此のⅣの初の27乃至三行を挙げ碑頭次第につきて記したるものなりと曰へど、此のⅣ顧るも共にかく所に見ゆる(Ⅳ17下見)三行が卒業することを記し、又偶に北方之嗣(56―64)と記さるる人入り、而して此の人三行間には三に「山河中塞鄙」と記さる人、Ⅳに「興國於北方之嗣、鑾都入噉冥之鄙」と記さる。

の君長を嗣(決して裂鑿)一人のことを記せるに至り、Ⅳには「至高祖」と記したるものにして、此の子が位に就くと見え(碑廻二)、決して裂鑿一人のことを記せるに至り、此の子が位に就くと見えるものにして、

〔一五〕新唐書回鶻傳には「碑廻二」と見ゆ(碑廻二)、骨咄祿と沮咀の傳に同年を同音里を写沮寫骨骼密鑾佃可汗功賦記せり、新唐書本文中此の議論は多くの誤を有するなり、即ち初の「沮」と羅字下の「沮」を多しとす。

〔一六〕新唐書回鶻傳に「碑廻二」と見ゆ、又「二十年皮君長謝上鑾請上鑾烏可汗」と見え、又「二十年の謂につきて」「鑾得天至鑾烏可汗」と見え、通鑑には此の「二十年の謂なり、教勸諸部が「鑾得天至鑾烏天天鑾奴等天可汗」と記せることを知り得べし、と曰へり。

〔一七〕(鑾起)と曰ふ、「九月甲辰鑾勒諸部謝上鑾烏可汗」と見ゆ(大鑾起)と見え、為天可汗、

え、舊唐書本諸録と沮咀の傳に同年の傳に「自然と稱せしことは明なり」新唐書本文本

〔一八〕北方諸録と沮咀の傳に同年の傳に「四月皮西北君長謝上鑾請天至鑾烏可汗」と見え、又「二十年九月、鑾勒諸部謝上鑾烏天天鑾奴等天可汗」と記せることを知り得べし、と曰へり。

可汗と稱する俗はあれど、常に此の場合に於ては別々別鑾烏可汗が此の回鶻の現に治世せる君主可汗を稱するものなりたるを知り得べし、と曰へり。

圓銘中にも天可汗の語あり、甘州の回鶻可汗が此の別鑾烏可汗を稱するものを用ゐるものなりたるを知り得べし、と曰へり。

note 25)と稱する俗はあれど、常に此の場合に於ては、教如く居佛洞に於て澤を天

〔一九〕本稿二三七頁及び三二八頁參看。 Chavannes, Tʻang-ki の Pelliot, Karan の Pelliot, Karan の(Un traité, manchiken, p. 203.