National Institute of Informatics - Digital Silk Road Project
Digital Archive of Toyo Bunko Rare Books

> > > >
Color New!IIIF Color HighRes Gray HighRes PDF   Japanese English
0406 羽田博士史学論文集 : vol.1
羽田博士史学論文集 : vol.1 / Page 406 (Color Image)

New!Citation Information

doi: 10.20676/00000267
Citation Format: Chicago | APA | Harvard | IEEE

OCR Text

次 選

27. IX (Jātine 第七の答) 7, VII
26. XII (omune 第一〇の答) VIII

IX (Jātine 第部の初め乃の答) VI

三二八

なり、されば突厥の部のよりもは三ヶ月早かりしものなり(愛紀)といへり、此の中第二の例は如何なる
事実を対比したるものなるか、今余の知り能はざる所なれど、他の二著につきては何れも正確に得たるものなりと信ずる
能はず、第一の例に就ては、関特勤碑は漢文に、開元廿年歳次壬申十月辛亥朔七日丁亥と記せり、此の七日は
十月は至末の朔にして、其の七日は丁亥なり、此の月日の誤れることはいふ迄も無きことなるが、此の年の
外月の其の理由は今略して明らかなり、これ共に、其の七日は二未に相当二年ばなり、九月の誤の
の他の足らず、之を省に於て、「日して」之を対にする、それは Marquart 氏が Thomsen 氏の論述に擬りて之を七月十七日と見たるは、誤にして採
るに足らず、宗廟の年第一〇月(即ち九月)二十七日は

唐 の王申歳

宗廟の場合に就きてふるに、Thomas 氏が突厥連の死を七月と見たるも、また Thomsen 氏が、Inscription de l'Orkhon, p. 79
に、宗廟の所を基とせられど、余の猿の所はさる所なれども、余の墓能はさる所なれど、Thomsen 氏は明らかに Mémoires concernant les Chinois, XVI, 26 によれれりと証せるものを

皮(二十三日)、突厥敗伐可汗の死を所なれせり、其の年月は明らかに開元二十二年「十二月度
されと之によれば 突厥敗伐可汗其大臣梅録死せる所録年月は、容懐之縣朝三日」と見え、且つ続時に於ける記述を載せたり、

宗廟の犬の年第一〇月(即ち十二月)二十六日は

十二月二十三日

唐の甲戌歳