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0439 羽田博士史学論文集 : vol.1
羽田博士史学論文集 : vol.1 / Page 439 (Color Image)

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doi: 10.20676/00000267
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の人が居たものであることには疑無いし、更にその多くが此の國の人であつたらうと考へるのが、適當の解釋と思
ふ。摩尼教は第三世紀に波斯で禁斷せられてからは、サマルカンド即ち康國、シャシュ即ち今のタシュケンドな
どを東方に於る根據地とすることに成つたものであるが、其の後第七世紀にアラビヤ人が侵入して、此の地方を支配する
に至つても、容易に其の信仰を奪ふことは出来なかつたもので、それでサマルカンドの人が其の有様を記したものはないか
摩尼教を東方に宣傳したものであらうといふことは、容易に想像せられるが、其の有様の如何を記したものはない。
支那には履ゞ引用せられて居る佛統記の初と見られて居る(舊書)の本文が武后の延載元年(694)に、ソグディアナの摩尼教徒の一團が羅氏して居つ
とあるのが、此の教の傳來の初と見られて居る(舊書)の本文が武后の延載元年(694)に、ソグディアナの摩尼教徒の一團が羅氏して居つ
と數年にして、羅布治の南に當る處、唐に石城鎭と稱した地域に據ると、其の祥瑞篇涌昌海五色の條(本二三三)に

と記し、その狀中に、八月何石城鎭將涌昌海(前拙)の水清明徵妣、五色の祥瑞を表せる旨を通じてあると記されて居る。
これについてペリオ氏が石城鎭の位置、康拂就延の康國人なることなどを論述した處に疑は無いが、自分は此の拂
就延なる名は實は佛風統記に見ゆる拂多誕と同一語で、音譯であると考へる。(就)(tan・tam)は摩尼教僧の稱號の一つで、tam
場合に「多」(to・to)と相通じて用ゐられて居る。即ち唐書祅延記に亦男の子拔酌の可汗として外國音を寫す顔
就延(ag)—宗義を知る人—なるソグド語と解くもの、音譯であると考へる。(就)(tam・tam)は摩尼教僧の稱號の一つで、tam

漠北の地と康國人