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0473 羽田博士史学論文集 : vol.1
羽田博士史学論文集 : vol.1 / Page 473 (Color Image)

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doi: 10.20676/00000267
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りしなり、され此の大石の自立して塞を去りしは侯大四六八月を去ること極めて近き時なりし事明らかにして、従が
つて、塞史の此の歳七月「自立鳥王、率所部四去」の記事を以て正鵠を失せざるものなりとせざる可らず。もとよ
り同年二月北庭より西向すべき理由の存するなきなり。

二 北庭都護府に駐るに至りし迄

本文に従が、「ば大石は塞を去りて北庭行三日にして黒水を避ぎ、白達達の詔響なる朕古兒に會し、馬駝羊の給
與を得て西の方可敦城に至り、時日の上に於て極めて短かりしものなるが如し。それども此の如きは果して是証し得べきものなりや。余は
く、先づ茲に記せる黒水及び可敦城なるものの「位置に就いて攻発する所なか可らず

ブレットシュナイデル氏はこゝに見ゆる黒水を以て甘粛省の額齊訥河と定め、何等疑を存せざれども(Bretsch-
neider: Mediæval Researches from Eastern Asiatic Sources; vol. II, p. 312; note 543)此の考は決して確かなる
根據を有するにもあらず。エチナ川を黒水と稱する(こゝは明らかなれども、然も当時遼塞に向へる道途に於て黒水
と稱する河流は、決して之をエチナ河以外に求め得ざるに非ず。氏は大石が塞地を去りて北庭都護府に向へる道途に過
ぎりたる河流として之をエチナ河と考へ、何等疑ふ所なかりしが如くなるも、然も此の如く考かふれば本文の北

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