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0483 羽田博士史学論文集 : vol.1
羽田博士史学論文集 : vol.1 / Page 483 (Color Image)

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doi: 10.20676/00000267
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各詔圖興復、當在三此城時、乃書於駐北庭府下、失〔二〕と目へると賛同せざるを得す

本文によれば、大石は出走の翌年二月甲午、旅を整へて北庭を発し、先づ書を回鶻王畢勒哥に與へて直ちに之を
帰服せしめ、更に西して遂に尋思干(カマド)に至りしは天會七・八年
の間なるべきを論じ述せり。されば此に見ゆるカマドのことはもとより此の年より後のことならざる可らず、今
これについて考ふべきは、此の回鶻王畢勒哥なるものは何處に據りし一部族なりや。此の部族は外
蒙古の根據地を去りてより後、一部は高昌のものは更に輪臺・龜茲の地方に據りたれど、一部は南の方流沙を隔てたる塞・宋・金等と交通し、南方甘肅
の地方のものは、宋の景祐二年〔長編の弁に據る〕西夏の李元昊の爲に征服せられたりと雖も、常時も尚其の勢力絶滅
せしには非ず、更にまた九世紀の半頃より興り、十世紀の終りには吹河畔のサラン(Bolasgun)を根據地とし
〔二三〕に及びても沙州の回鶻活動せるもの、金の宗史に、宋・金の宗史に見らるれば〔宗史〕
て、廣く東西トルキスタンに勢を古め、大石の侵入に當りて之に其の國を譲りしイレク・カン(Ilek Khan)家、
もしくは近世の學者のカラ・カン(Kara Khan)家と稱するものも、亦た回鶻部族なりしが加し。但だ之が果して回
僧族なりしか否かについては未だ全く疑点なきに非ず、主として此の王家の奥義を紹介したる Grigoreff 氏及び Radloff 氏
め Lerch 氏等はこれをカルック部族と考へたれど Deguignes、Fiilim、Reinaud、Bretschneider 氏及び Radloff 氏

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