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0519 羽田博士史学論文集 : vol.1
羽田博士史学論文集 : vol.1 / Page 519 (Color Image)

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doi: 10.20676/00000267
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られて居るのであるから、必らず何等かの手段を付けなければならぬ場合になって居る、されば
此の當時は兩國の關係は極めて危殆の狀態が生じて來たものと見なければならぬ、然るにまた此の差し迫まった
局面に、轉機を生ぜしむべき事情が生じて來た、明の太祖洪武元年には崩御これである。
洪武三十年閏五月に太祖崩じ、建文帝位を嗣いだが、翌建文元年は粘木兒の叛が生じて、西域地方の問題の
如きは到底顧慮する暇なく、只管内亂の鎭定に從事するのみであった、さて此の消息が粘木兒の許に達したのは、
建文元年に當る三九九年の終り頃であった、此時粘木兒は印度のデリーを陷れ、四月に一旦撤兵罷空に
歸り、暫時の休養を貪ぼったが、不幸にして西の方方の總督しなければならぬ彼目になって來た、そこで、其
の地方一帶に軍事を率ゐて西方に發し、今は冬カラバグ(裏海の西、タブリツ市の北方)に至って語王將の出迎を受け、こゝか
月には軍事を征服させ、目からは冬をそこにすごして四方の形勢に注目して居た時に、國家の利益となるべき情
ら兵を出して征討に到達したのであった、彼の陣営に到達した時に、王が此處に居た時に、國家の利益となるべき情
報を接したとして、「永く世を治めた偶像崇拜者なる支那の皇帝タングース、カン死し、國家に孚虎を生じたこ
と」をその中に數べて居る、タングース、カンとは此の頃中亞で支那の皇帝を呼稱した「戰勝記」の義なると
ルコ語である、かゝる報知に接したので「事情に鑑みて都を引き返したのは五年目の後であった、彼をしてかく意を西
の後引き續き此の方面の軍事にかゞらって、再び都を引き返したのは五年目の後であった、彼をしてかく意を西
方にのみ用ひじめたのは、東の方を顧慮する必要がなかったからのことで、もし支那の情報がカラバグ濫營中に來

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