National Institute of Informatics - Digital Silk Road Project
Digital Archive of Toyo Bunko Rare Books

> > > >
Color New!IIIF Color HighRes Gray HighRes PDF   Japanese English
0532 羽田博士史学論文集 : vol.1
羽田博士史学論文集 : vol.1 / Page 532 (Color Image)

New!Citation Information

doi: 10.20676/00000267
Citation Format: Chicago | APA | Harvard | IEEE

OCR Text

四九四

居る。砂と溶岩との相違こそあれ、在りし町の埋没したことに於ては、ヴェスビ十山下のポンペイと同様であ
る。この埋没の状態については、各々の伝説、多くは宗教的の色彩を帯びた伝説として、今日に伝えられて居るもの
が少くない。前にいった玄奘三藏の「西域記」の中から、その一例を下って今のカシュガルから子闐に出て、崑崙山腹に沿
玄奘は印度から東亞諸国への鮮途を中央亞細亞に取り、客蔵を下って今のカシュガルから子闐に出て、崑崙山腹に沿
うて東する道筋、即ち当時南道と称した道筋あらたかであるが、その途中子闐の東方に当る儌城に到し記事の中に、
此の地に来た佛像を彫んだ佛像があって、霊験あらたかであるが、元来此の佛像は印度から空を渡って儌城に到し、
傍落辺城に来たものである。当時その地の人々は佛法を信ぜず、従って此の像を尊敬しなかったが、後一人の羅漢
これを霊験した。國人はその時を見て、怪しんで國王に告げた。王は命じてその羅漢に此の人に告げて、今
た。時に或人がこれを毒気の毒に思って、城中のものを殺んと遺漢に食物を供した。これは自分をけがしに闘に沙土を作って置い
より七日の後に砂が降って、城中に満ちた。此の人数難で
早く逃げ仕度をするがよいといったが、果して七日目の夜に砂が降って、城中に満ちた。此の人数難で
孔道から出て、無事、儌摩城に至るを得たというふのである。
此の地方のメハッド教徒の間にも、亦同様なる伝説がある。タリム河の注ぐ羅布沼の近傍と思はるゝ所に、カタ
といふ町があった。此の地の住民に或人が頻にメハッド教の信仰を説きすゝめたが、一向に効果がなかったの
で、其の人は遂に此の地を見捨てゝ去った。去るに臨んで此の町に下されると確言した。彼に従った従者の一人は、途中用事の為に後に引返し、人々の不信を責める時、神は大厄を此
の町に下されると確言した。彼に従った従者の一人は、途中用事の為に後に引返し、人々の不信を責める時、神は大厄を此