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0603 羽田博士史学論文集 : vol.1
羽田博士史学論文集 : vol.1 / Page 603 (Color Image)

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doi: 10.20676/00000267
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との關係を推測するを得るやうである。即ち西域水記によると、徐松がここに行つた時、「彼土耆士趙吉云、
乾隆癸卯歳、嚴群沙中、掘当得監贋、有文云、秦建元二年、沙門樊僧立、始寫沙所と段、と見えて居る。これは必
ずしも千佛洞の創始を樊僧に歸すべき樣と言ずには足りないが、果して之が眞實ならば少くとも建元二年といふ時
代に於て、樊僧と千佛洞との間に何らかの關係の存したことを示すには、頗強の材料である。それで従来は此等の示
す處に従って、何人も千佛洞の起源を此の時代と此の人とに歸くことに於て疑を有するものなかつたやうに思
ふ。然るに、リオ氏はこの一洞中から得た多くの文書の中に、前後の残缺した、沙即ち敦煌地方の地志の斷簡が
あって、今氏のここから第一行から第二行にかけて、巴耳の Bibliothèque nationale に藏せられる

その第(?)行から次の行にかけて
令(?)時窟字並已藏、新(?)從永和八年癸丑歳叛建窟、至今大漢乾誥二年已西農一至得五伯玖拾陸年
記の文句がある。此の記事が敦煌の窟に關するものであることは、書物の性質上からも疑ふき餘地はない。
それでこれによると始めて千佛洞の窟が作られたのは、東晋の永和八年に開するものであること、突丑は永和八年癸丑歳の事上からも疑ふき餘地はない。
實は突丑までに無くして王子の歳に当り、突丑等の闡亭によって有名な突丑永和九年に相當する。この間
の矛盾は天人一記されて居る五代の歳永和九年(363 A.D.)に逆算して見れば訂されなければならぬ。そうして東晋の
九十六年を通ると、實にこの前後か二年に長安に據って前秦の苻健の息苗二年、姑臧に據った前涼張
永和九年は、北方に於てはこの前後か二年に長安に據って前秦の苻健の息苗二年、姑臧に據った前涼張
重華の永樂八年で、敦煌の地方はまだ前涼の勢力の下に在つた時代である。

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