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0604 羽田博士史学論文集 : vol.1
羽田博士史学論文集 : vol.1 / 604 ページ(カラー画像)

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doi: 10.20676/00000267
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此の如く教煌の佛洞の創始については、従来の符駁の建元二年の時とする説の外に、新に東晋の永和九年、北方
はまだ分裂の情態に在った当初に、既に此の事のあったことを示す史料が現はれて来た、新に思や樂僔が之を創始
したといふ説は、武則の聖歴元年に李氏が新に佛洞を造営した碑もあって、之を樂僔の創始に帰すべきものであったので、之を樂僔の創始
に帰したか、或は別に史料の存するものがあったかの何れかであらうし、永和八年=實は九年=の説は、五代の漢
の乾祐二年、教煌地方の地志を書いた際に、必ず何か此の説の典拠となるべき材料が存したものに違いない。今その
材料として用ゐられた起事の部が運悪く残欠して、之を時代の上から考えれば、両者の相違は遺僔に十三年だけについて、此間支那
両説を生ずるに至ったとはいふものの、裁だ注意すべき大変動を生じた時代の上に於ては、両者が単に相違数に
全體の政治的形勢の上に於ては、こればかりの時代の前後は殆んど論ずるに足りない。たとその創始が各族の建元二年に在るといふのが、必ずしも

唯一の擡るべき説ではないといふことを知って置けば、それで足りるのである

かくて教煌は、一月餘り鹵莽園より支那に僑住して居った時より支那に僑住して居った時より二三十年前、支那僑信にして初めて西方求法の途に就いた法顯
三藏が、一月餘り也教煌に滞在して居った時よりも百數十年の以前に於て、この平洞は創始せられたものであるが、かゝる洞窟の
佛教流行によって作られた時よりも百數十年の以前に於て、この平洞は創始せられたものであるが、北魏時代の
を山脈に穿って、中に佛像を祀り、周囲に佛書を描くといふことを引いたものと見るべきで、黄土の壁式上
多少相違を有して居るにしても、矢張り印度や西域諸國の系統を引いたものと見るべきで、黄土の壁式上洞

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