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0611 羽田博士史学論文集 : vol.1
羽田博士史学論文集 : vol.1 / 611 ページ(カラー画像)

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doi: 10.20676/00000267
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量壽經一百部、四十部爲釋天王、卅部爲毘沙門天王、遊摩訶衍一部百卷、卅卷爲毘沙門天
王、遊梵慮一部、爲毘沙門天王、一分爲常釋天王、卅部爲毘沙門天王、遊梵天王、一分爲常釋天
王、卅部爲律五十五卷、一分爲帝釋天王、卅部爲梵釋天王、内律五十五卷、一分爲帝釋天王、
顧、遊賢慮一部、帝嗣不絶、四方附化、觀佛三昧一部、顧眼退歡、國豐民安、善顧從心、含生有識之類、(以下缺)
これによると大魏の普泰二年王子(622 A. D.)の歳には東陽王元榮といふ人が瓜州刺史であったもので、此の
奥書の願交も其の任地なる瓜州刺史(当時瓜州といふのは牧煌の地で、東方常樂縣に瓜州が置かれることに
なったのは、唐の武徳五年以後の事である)で書かれたものに相違ない。同帝は其の十月に廃せられ、同月代りて即位した後廃帝(魏書子の歳三月)は中
興と改元し、翌年四月には帝も昌と称せられた廃せられた。それで普泰は元年だけで改元の事(魏書子の歳三月)は中
興と改まって後既に五ヶ月目に常せってなほは普泰の年號を用ゐるのか、或は故意にかく稱したのかが到定し
いで、中興は正しくは中興二年二月と稱せられるべき筈である。邊地敦煌の事であるから、頻々たる改元に通じな
難い。

さて魏書の孝荘紀に據ると、永安二年(629 A. D.)八月「丁卯詔封瓜州刺史元太棠、爲東陽王」と見え、北史魏
本紀第五にも同様の事が見えて居るが、たゞ北史には元太棠を元太棠に作つてある。この永安二年に東陽王に封ぜ
られた瓜州刺史元太棠が、前掲律藏初發卷第十四の奥書に元太棠と記して居るに鑑みるに、奥書
州刺史東陽王元榮を以て現はれる、奥書
敦煌千佛洞の石窟に就きて

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