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『東洋文庫所蔵』貴重書デジタルアーカイブ

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0613 羽田博士史学論文集 : vol.1
羽田博士史学論文集 : vol.1 / 613 ページ(カラー画像)

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doi: 10.20676/00000267
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りて駆ふべき除地が無いとすれば、魏書や北史に瓜州刺史元太棠以前に別に同じ瓜州の地に封ぜられたのを永安二年に封ぜられて居る
のは誤でなは以前に置くさであると見るか、或は元太棠の東陽王に封ぜられたのを永安二年の前二年なる孝昌三年には侃其の地に在ったのであるが、魏書にはそれを載せておらいの
あつて、それが孝昌二年の東陽王というのは私に稱した所の方法はあって(参後)、永安三年になって公けに対いの
だと見るか、それとも孝昌二年の今積極的にそれを証する人が駐まて居り、普泰=中興・永安二年東陽に封ぜられた人は瓜州の刺史であったこ
事があったと見るべきか、何れとも今積極的にそれを証する方法は無い。更も角北魏の末に当る孝昌・永安・普
泰・中興の頃に瓜州に頼する人が駐まて居り、而して孝昌三年には王の従臣、
とも明らかであり、而して孝昌三年には王の従臣、普泰=中興・永安二年には王日からに依りて造瓦の功徳を修せられた
ものである。
さて此の事實を知って前述の如く大周孝君修功徳記について考へて見るに、記には前述の如く千佛洞臭高窟之靈腸
を沙門・樂僧、法良禪師等に歸し、次に「復有刺史建平公東陽王妻姬、造作相仿、實神秀之幽巖、靈奇之
浄域也」として、續いて其の所在地から考へ、更に「復合弘東陽王と繰り返して居る。ここに
〔墨史という〕ふのは此の碑の所指す所、其の碑名を連書したのは、一人ではなく、兩人なるが爲に鳥であること疑無。建平公東陽王とか、建平東陽とか、初め建陽とか二
つの僧名を連書したのは、一人ではなく、兩人なるが爲に鳥であること疑無。後日瓜州の刺史建平公東陽王とか、建平東陽とか、初め建陽とか二
あつて後後に東陽王となった一人を膽とかく記したものと考へられるべき問題である。かく瓜州刺史建平の制史で建平公の僧に封
ぜられた人を後捜し出すことでも出来れば直ちに解決されるのであるが、今の所それが得られぬでもない。後日瓜州の制史建平の制史で建平公の僧に封
ぜられた人を後捜し出すことでも出来れば直ちに解決されるのであるが、今の所それが得られぬでもない。かく瓜州刺史建末の人、瓜州刺史建平公東陽王が千佛洞の
跡な乱め、神秀藥奇の地ならしめたとの記事に遭遇しては、吾人は今や直ちに記載事に遭遇しては、

敦煌千佛祠の營造に就きて

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