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0614 羽田博士史学論文集 : vol.1
羽田博士史学論文集 : vol.1 / Page 614 (Color Image)

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doi: 10.20676/00000267
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五七六

榮=元棠を以てこの東陽王に披當せしむるに躊躇しない。從って管の永和九年、また秦の建元二年頃から漸次開か
れた敦煌の千佛洞が、其の後東陽王に其の一つを即ち此の時代(建平公と東陽王とを二人と見れ
ば)か、若しくは此の時代の前にも後にも漸次増築修繕せられたもので、以後のものについて言ふまで
もないが、この以前に属するものとしては、劉宋元嘉二年(435 A. D.)の題銘が東陽王当時の造営が特に後世に存
する「北京大學問學門實地調」が知らせ其の一例である。かゝる増修の中で、東陽王陳萬里氏の所訓銘九洞に
る。(西行日記)一四三頁)が達しないものであったに於て、「金堂」などに、北魏の様式を帯びたるもの
少くない事實は、かくの東陽王の時代を定め得ることに於て、佛洞の壁画や佛像または他の装飾の適切な説明を與へることと思ふ。中興二年から
六年目七年目に当る大和四年五年などの題銘を有する佛洞(西行日記)などは、東陽王太棠=元棠と
認むべきであろう。

東陽王太棠=元棠は世系経歴等に就いては今の自分には全く知る所ないのであるが、元氏の東陽王の佛洞増修に盡力し記念と
系に属するものなのかは言ふまでもない。前に述べた東陽王不二子隆・超等が誅せられた時
に、魏書の不の傳に據ると、「其後妻二子驅隆・超母弟及飽庶兄弟徙敦煌」と見えて居る。或は思ふふに元太棠
は此の時敦煌に従った去の「族中の人」で、後に永安二年に至って先世の廟を襲ふて東陽王に対せらるゝに至
たのではあるまいか。

開、早遡京國、敷暢詞議〈一卷〉前に引いた孝昌三年の觀世音経の奥書に、尹波が主人東陽王の爲に新願して、「且途尋
に、この東陽王なる人は広州刺史の某を任に