National Institute of Informatics - Digital Silk Road Project
Digital Archive of Toyo Bunko Rare Books

> > > >
Color New!IIIF Color HighRes Gray HighRes PDF   Japanese English
0717 羽田博士史学論文集 : vol.1
羽田博士史学論文集 : vol.1 / Page 717 (Color Image)

New!Citation Information

doi: 10.20676/00000267
Citation Format: Chicago | APA | Harvard | IEEE

OCR Text

昆見年正月、即ち至元二十三年正月、安西王忙哥剌の令旨の碑に刻せられてあるものを見ると、上部に蒙古字、下部に漢字を用ゐてあることは、世祖の至元十二年の聖旨と異らないが、その蒙古字旨では漢字音を寫したものでは、なく、全く蒙古語を記したものである。これは厳密にいへば聖旨と区別せらるべき令旨ではあるが、漢文の翻譯を闕へたものと見て差支なからう。そすれば此の年既に此の種のものに於て蒙古字で蒙古語を書き、漢交の翻譯を闕いたことを証するものである。尤もかゝる有様は、自分の知る限りでは此の年以前に潮らないやうであるから、現典の上では前述の如くであり、またかの頃のものも行はれ始めたと見る外はあるまい。そうして何時から何時に到然定め得ないから、實際招動に蒙古字を用ゐて漢字音を寫す所で明らかである。即ち元史世祖本紀に
据ると、
「至元二十九年正月、河南福建行中書省臣請訓用漢語 有旨、以蒙古語論河南、漢語論福建」
とある。かく明らかに蒙古語對漢語と区別してこの當時蒙古語で語を発して居たことは文字と記されているものと区別して考ふべきは疑無く、河南福建兩行省に於てこの當時蒙古語を用ゐることが行はれたかについては明証を知らないが、鋪馬劄子に蒙古字のみではなく蒙古語を用ゐて居たことは既に至元十六年には行はれて居つた証據がある。即ち經世大典の記事に據ると

六七九