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0725 羽田博士史学論文集 : vol.1
羽田博士史学論文集 : vol.1 / Page 725 (Color Image)

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doi: 10.20676/00000267
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なかった。初め中亜・波斯等の城市を征服しても、自からは城市のてに入らず、別に附近に幕幕の生活を営んで、
これを監親し、貢租を徴するを以て主義としたことは、其の施政に関する制度萬般の於て、従来に実験
も工夫も有しなかった蒙古人が、自から漢地を支配するに当っては、其の施政に関する制度萬般の
るは当然のことであって、必ずしも之を認めるを得まい。ただかゝる蒙古人の中に、事実民田を以て牧地としたものも
は、隣縁にも漢人の蒙古に念無きを叫んで、当時政治に参画した諸臣に聴き、漢土の旧制に従って政治を施す方針をとったの
は、流石に開國の英主の態度と認むるに足る次第である。即ち至元十二年五月、世祖は次の政事
高達に諭して、

昔我國家出征。所攻城邑即委而去之。未嘗置兵戍守。以此連年征伐不息。夫爭國家者取其土地人民耳。難得
土地面無民何益。今欲保守新附城壘。使百姓安業力農。蒙古人未之知也。爾熟知其事。宜加勉旃。元史
本紀 至元十二 世祖

年五月庚辰條

といふ当時の蒙古人の幼稚なる政治的知識と、世祖の見識とを示すものである。勝ち誇った蒙古人と
してふ漢地のそれとは、当時の蒙古人の俗に就くことは甚だ難いとした点を多く、至元三年許衡
が時務五事を論じ、漢地に在りへ、亡國の俗に従ふことを屑しとしなかった蒙古人の多くが、漢法を用ゐるに相違なく、きを説いたのは、当時蒙古人の多くが之に従ふことを屑しとしなかったと認められる。世祖自身については、元史を初め、
皆その儒道を重んじたことを書いている。劉秉忠・許衡・姚樞・寶覺等が、世祖に重く用ゐられたことから考へて

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