国立情報学研究所 - ディジタル・シルクロード・プロジェクト
『東洋文庫所蔵』貴重書デジタルアーカイブ

> > > >
カラー New!IIIFカラー高解像度 白黒高解像度 PDF   日本語 English
0077 羽田博士史学論文集 : vol.2
羽田博士史学論文集 : vol.2 / 77 ページ(カラー画像)

New!引用情報

doi: 10.20676/00000267
引用形式選択: Chicago | APA | Harvard | IEEE

OCR読み取り結果

内遷、死長安」と曰へば、聖暦二・三年(六九九・七〇〇年)よりの事となるが、神龍二年(七〇六年)に死し、其の子娑葛篤げ、娑葛の弟遮弩は兄と争ひ、叛きて北突厥の黙啜に投ぜしかば、黙啜は攻めて真を減し、又遮弩を殺し、近て突騎施の両派に分れ相争ふものゝ、餘衆は遂に自ら可汗を称するに至りしが、
晩年は益〻衰へ、使を唐に遣して入朝せしめたると見ゆ、相申し、遂に部下の者に殺されたり、之して自其の勢漸く衰はず、殊に至徳年間
以後年国廃へ、黄姓里姓の両派に立て、也も在中(七五八・七六〇年)には、向其子阿多婆羅
といふもの、居葉城城、稍衰慢、(六暦(六七六)後、葛邏禄縁徒居碎葉川、三姓
る、葛邏葛縁、解悉蘊部附回僕、及其役波、有特勒、唐德葛邏縁縁傳に依るも「至德以後葛邏慢盛、與回乾
争覇、葛邏葛可汗(Kaifu)が勢力を得、碎葉川地方に擁りしは、唐德葛邏縁縁傳に依るも「至德以後葛邏慢盛、與回乾
爭覇、使十姓可汗故地、盡有碎葉斯諸城」と見ゆれば、至德大暦の頃に相当するものと見て誤る無し、されば
突騎施の勢盛にして1可汗を稱たりしは、略西紀七百年頃より七百六十年迄の間の事に過ぎ、従て前に見たる突
騎施可汗の貨幣も、亦此の間の鑄造に係るべきものなりとす。
 更に此の貨幣を質の上より見て、之が開元時代(七一三―七四一)
のものと全く同じ様を擬するに、羅振玉氏は其の銅質形式の上等より見て、乙が開元時代(七一三―七四一)
 此の如く此の貨幣の時代が八世紀、殊に其の前半時代と定め得られたりとすれば、其の上に刻せ
所謂回文字も、亦当時天山の北方 Tokmak 地方仲整の谷間地方より、北題裔昌等と接続したるトルコ族なる
突騎施族の間に、公用の文字として行はれたるものなることを明らかに認め得べし。