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0089 羽田博士史学論文集 : vol.2
羽田博士史学論文集 : vol.2 / Page 89 (Color Image)

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doi: 10.20676/00000267
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唐代突厥についで涼北抗愛山麓の東、幹兒汗河畔に崛起した回鶻民族が摩尼教の信徒であったことは、稙めて明
らかに知られて居たに係はらず、此民族の遺物として同河域に残されてある碑文が摩尼教に關したことを記して居
るものであるといふことは、つい近頃になつて解つたことである。Roborovsky、及び Kozlov が一八九三年から
一八九五年にかけて蒙古を旅行して、幹兒汗河域の地から持つて歸つた碑の斷片は、歐羅巴に於る此地方の摩尼教關
係の史料としては實に最初のものであったが、しかし當時はまだその性質を具に究めることが出来なくて、從してペ
テルブルグの博物館の一室に讀せるゝに過ぎなかった。一九〇四年になつて獨逸の學者の熱心なる研究の結果が
發表せられて(Sitzungsber. der Berl. Akad. d. Wiss. II. Februar 1904)、道の光明が東方の摩尼教史料上に
與へられたので、同年露西亞でも始めてその性質を定めて發表するに至つた。尤もその以前一八九九年に Schlegel
氏は之を囘鶻に行はれた新宗教に關する文字として解釋して居るけれども(Die chinesische Inschrift auf dem
uigurischen Denkmal von Kara Balgassun)、氏の考によると所謂新宗教なるものはネストル派の基督教を指さ
して居るのであつて、もとより正確の考ではなかったのである。
 一體東突厥が亡びてからは北方では回鶻全盛の時代となつたのであるが、安祿山の變に唐室が囲の輕重を問はれ