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0274 羽田博士史学論文集 : vol.2
羽田博士史学論文集 : vol.2 / Page 274 (Color Image)

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doi: 10.20676/00000267
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二一二

所謂西南蠻夷と支那との早くより交通せるは、今更ためて説くの要を見ず、而して隋唐の頃七世紀の終近に於ける
南方の航海事業は、殆んど波斯人の獨占とも稱するを得べく、法顯伝、南海寄歸伝、大唐西域求法高僧伝、鑑眞和
尚東征伝等を見れば能く其有様を知るを得べし、八世紀以降に至りては、波斯の滅亡と共にアラビア人の東航頻和
に移りと雖、尙は波斯船の多かりしことは、アブルフェダ等の語る所にして、有名なる事實なりとす、されは唐末代
に至りと雖、尙は特に波斯の名を示さずと雖、宋史大食伝には新興の大食の一部と記して雖、舊来の波斯は
此中に含まれたり、而して此等唐人の来航して廣に市易せし有様は、文獻通考を以て、唐末廣県の亂時一度衰退せし
て太祖の開寶四年、廣州の市舶司を置き以来、(宋史食貨志)(宋史大食伝)感平二年には杭州に市舶鹽を置き、
天聖元年には之を司と改め、(宋史食貨志)終に元祐、(徽宗)の始には、此文書の誉かれたる所なるも、クラブロートの説け
アブルフェダ、マルコポロ、オドリック改め、Nārun 説は、他の市船司が鳥に、之がれしも、獨り説け
るが如し)及び儋州、(廣州)にも之を置せり、而して崇寧に至りても、尙は財源を得んが嘉定の頃に至りては、年々至
る所僅か四五艘に止まれりと、然も此等の間に波斯人の伍せしことは、アブルフェダ等の記する所に従ふも同よ
り屡ふ可き南蠻人なるものは、慶政の途にし南蠻人の間に波斯人の政策専らに利を覆んとするにありしより、
文書下方の左端に、「慶政三寶名 スッタラ(?)」は、此等波斯人中の「兩三人」なりしならむ。
佛、法、僧、を稱する諸語の伝へられたるものなるべし、然も何れの國語なるや支那を知らず、忘れ所謂南番にて三寶即ち