National Institute of Informatics - Digital Silk Road Project
Digital Archive of Toyo Bunko Rare Books

> > > >
Color New!IIIF Color HighRes Gray HighRes PDF   Japanese English
0348 羽田博士史学論文集 : vol.2
羽田博士史学論文集 : vol.2 / Page 348 (Color Image)

New!Citation Information

doi: 10.20676/00000267
Citation Format: Chicago | APA | Harvard | IEEE

OCR Text

であるかの一端を知るに足ると考へる。貞観十二年といへば阿羅木が来朝した時から三年を経過した時である。此
の間に於て其の徒は新天地の唐に於て教義を宣傳するに当り、その教旨をかへる詔に要約することにしたものと思
はれる。然らば何故に特に教皆の宣傳を宣べるに当って、機縁をこれに求めたのに外ならぬであらう。思ふにこれは唐の皇室の有様に膽
み、阿羅木以下其の徒の新たに教皆を宣べるに当って、帝祖の觀念に基づく老子崇拜は、帝祖の武德三年吉蒿行が半角山に於て、老夷を見たという傳說を初めとし、唐室の
な事實した詔の中にも、實に前記太宗の發せられた貞觀十二年三月に、道士女冠の位置を僧尼の上に置くこ
とを宣した詔の中に、

況朕之本系起自柱下、聞訴克員、聞訴克昌、既膺上德之慶、天下大定、本朝無爲之功、宜有改張闡茲玄化、自今上後、
供行立、至若嗣訓、道士女冠在僧尼之前、天下大に足まる俗事を有、脊祖之所謂上德無爲之葉、齊

と見えて居る。その爲に當時必ずしも自から信仰薄からなかったと思はる、佛教に對してすら、その僧尼の位置
化を張ることとにした時に、時世に適合した宣傳の態度であったと認めざるを得ない。要す
老子の教に求めるようとするに至ったのは、時世に於て、新たに教義の宣傳を開明の態度であったと認めざるを得ないであらう。要す
るに歸女親する所の、或は列聖の像を其の寺院に安置し、或は天武后の時代に於て教運に沿論したこと、玄宗時代に於て復興の運に當ったこと、
て確々たる皇眼に依頼し、敏くも老子に機縁を求め、歴代皇宗との
縁故の淺かれなかったこと、則天武后の時代に於て教運に沿論したこと、玄宗時代に於て復興の運に當ったこと、

二八六