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0405 羽田博士史学論文集 : vol.2
羽田博士史学論文集 : vol.2 / Page 405 (Color Image)

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doi: 10.20676/00000267
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保西北之哈木爾達夷、明域之也、即古供密山、西攻諸哈俱里克等音均可通用、有大樹山、而知哈密主名詞在遠西、非可
以一域概之也。哈木爾即元之供哈裕力、即密里哈耳一音異譯、非親詞諸老、寫平知之。
といふ方之與獸部那耳、供密即元之供哈裕力、侍行記に據ると大體哈密の方に據る、史官不知士音之賞哈楠里、課分爲二地。
猶天方之與獸部那耳、供密即元之供哈裕力、侍行記に據ると大體哈密の方に據る、三卷建置一、哈の密の怪に據ると、北百四十里に供密山があり、其西五百里の地であり、そこからは西北十
一里の地に在りと記してある。
元和志は納職縣の東北百三十里に伊州圖圈があり、北百四十里に供密山があるといふのだから、大概誤りなく比して宜かろう。但だこの
哈術志は西方今の百五十里内外の地点にある哈木爾達坂に求めるのは、大概誤りなく比して宜かろう。但だこの
記されたやうに、地が山に因って名前が知られ、そうして慶唐来時代に書かれたと思はば伊州
即ち後の哈密附近に供密即ち等の名に常に出で居るのを認める時に、伊州は唐慶唐代に書かれたと思はば伊州
れる此の文書に、qam(ğ)ıl qam(ğ)ıl というふ地名の出て居るのを認める時に、Komil, Kamil, Qamil とか、Qamul とか
とかいふ名を有してゐたものであらうと考へるのは必ずしも無理ではあるまい。
夏に、kütüšn というふ名についていも、運くとも西紀第十世紀の牛頃には此の地方のトルコ人の間にこれが行はれて
居たのであらうと思はれる。⑱ Küci の土名は、Tugagüan とは、唐代の梵語文書に、Kuci と記してある
が、Massudi の Les prairies d'or の中に、Tugagüan と Chine との間に位する Küšin というふ
町を値し、今囘三三三年(西紀九四三)にすべてのトルコ族中最も重要な種族で、また最もよく統治
されて居る。……彼等はすべて此等の種族中で、ただ一獨り摩尼教を奉ずるものである。と記し、また別に「Küšin

囘鶻文摩尼教徒新願文の斷簡

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