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0449 羽田博士史学論文集 : vol.2
羽田博士史学論文集 : vol.2 / Page 449 (Color Image)

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doi: 10.20676/00000267
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一 阿羅憾なる人に就いて。

幅「尺五寸四分 高「尺五寸三分
左方に線を調せ調せる字は余の濶解し能はざるものなり
囲圏花鳥紋調約…寸

阿羅憾の名は新旧唐書以下の史籍に見えざること、既に陶齋藏石記に記する所なり、而して記には此を以て頗ふ
る波斯の卑路斯、或は其子泥涅師に非ざるなきか如疑がひ、然も其の名の全く符合せざるに苦しめり。泥涅師は波斯
薩珊王朝の遺孽にして、祖國の滅亡する者の叫火羅に走り、更に唐に来賞して其の保護を仰ぎ、卑路斯は卑路
斯のそにして、賓子として唐に遣はされたるものとなり、唐営に仕へて官右屯衛将軍に至れりと曰へば、彼の波斯王と称する卑路斯父子の入朝の時及び其の事績等に就いて一見常に知らるゝ所と
て、唐に仕へて官右屯衛将軍に任ぜられたるに鑑み、両者中の其一人を以て阿羅憾と見んとすれば、一見常に知らるゝ所と
泥涅師が屡衛将軍に任ぜられたるに鑑み、両者中の其一人を以て阿羅憾と見んとすれば、一見常に知らるゝ所と
△如し乍睡、然かも其の事績等に就いて現存の史籍
に就き、余輩の渉獵せし限りに於ては、当時阿羅憾の名の記さるゝものなく、強いてあるのみ。阿羅憾は銘に、唐会
要に就き、余輩の渉獵せし限りに於ては、当時阿羅憾の名の記さるゝものなく、強いてあるのみ。阿羅憾は銘に、唐会
考へ合す時は、到底両者の同一を設き得べきに非ず、必ず此れを他に求めざるを得ざるなり。然れども現存の史籍
に就き、余輩の渉獵せし限りに於ては、当時阿羅憾の名の記さるゝものなく、強いてあるのみ。阿羅憾は銘に、唐会
要に就き、余輩の渉獵せし限りに於ては、当時阿羅憾の名の記さるゝものなく、強いてあるのみ。阿羅憾は銘に、唐会
年(西紀七一〇)露九十有五を以て没すといへば、其の出生は隋の大業十二年(西紀六一六)にして、景教碑の先驅者が高宗時に尚は其の側にあ
る阿羅本来朝の時、即ち貞觀九記(六三三五)には正に二十歳に相当し、而して阿羅本が高宗時に尚は其の側にあ
せる阿羅本来朝の時、即ち貞觀九記(六三三五)には正に二十歳に相当し、而して阿羅本が高宗時に尚は其の側にあ

波斯嗢難賞長阿羅憾墓誌銘

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