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0457 羽田博士史学論文集 : vol.2
羽田博士史学論文集 : vol.2 / Page 457 (Color Image)

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doi: 10.20676/00000267
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五 有子倶羅等。

藏石記に曰く『新唐書波斯傳云、天寶時来朝者曰倶爛弥、寔卽阿羅憾之子倶爛、躍卽爛邪二、余音、爛第二字念碑』すれど此の考は、一見して其の不可を知るべし、倶爛邪の来朝は天寶時と記され、實に三十餘年の後のことに屬す、況や倶爛邪なるものは人在りしこと疑なきに、同傳の末に「真觀後、遠小國皆遣使者来朝獻、有司亦参考本末者、今附之左方」として『天寶時来朝者、曰倶爛弥、思ふに茲に記せる倶爛弥、乃ち倶爛邪國は、之と共に擧げ蘭、曰蘭刺獻、有司亦参考本末者、曰合摩、曰威遠、曰蘇吉利國昔遣使者来朝獻、同倶位、凡八國云々』と記せり、思ふに茲に記せる倶爛弥、乃ち倶爛邪國にして、『倶爛或曰倶蘭邪國』と記さるゝもの、卽ち Kokena 河に沿へる 國られたる諸國よりして考がふれば、環地諸三千里、南大雪山、北烏出金山、接、曰蘭刺國より して考がふれば、環地諸三千里、南大雪山、北烏出金山、接を云へるものならずあらず、册府元龜七百九十一には倶爛邪國とも記され、其の王参摩婆の奉りし表交を載せたり、『有司亦参考本末者』に相當すべき理由なし、余輩は父阿羅憾と共に其の子息の名をも史籍に遡したるを慮みとし、されば之を以て阿羅憾の子倶爛(或は倶羅等か)に相當すべき理由なし、余輩は父阿羅憾と共に其の子息の名をも史籍に遡したるを慮みとし、特に其の懸案なりと思惟せず、而して以上余輩の管見は、此の丘銘に就きて史的価値の存在に謙り、字句の放証に得たるが吝なり。

に止まれり、其の他の諸點に就きては之を藏石記の記載に譲り、諸しんで學者の教に施さず、諸しんで學者の教に至りては其の訓詁をも施さず、諸しんで學者の教に至りては其の訓詁をも施さず、
一二三讀み能はざるものに至りては其の訓詁をも施さず、諸しんで學者の教に至りては其の訓詁をも施さず、

波斯薩寶長阿羅憾丘銘

(東洋學報第三卷第三號、大正三年八月二十一日稿)

三九五