National Institute of Informatics - Digital Silk Road Project
Digital Archive of Toyo Bunko Rare Books

> > > >
Color New!IIIF Color HighRes Gray HighRes PDF   Japanese English
0488 羽田博士史学論文集 : vol.2
羽田博士史学論文集 : vol.2 / Page 488 (Color Image)

New!Citation Information

doi: 10.20676/00000267
Citation Format: Chicago | APA | Harvard | IEEE

OCR Text

めて密接の関係の存することを知るに充分であらう。もし()の場合なりとすれば、金の天會十二年に建
てられた郎君行記は、契丹文字を刻したものと見なければならぬことになるし、()の場合なりとすれば、女眞の
大字といふものが契丹字との間に有する関係は、金史に記してあるやうに、契丹文字者の完顔希尹が單に漢字の楷字の
形に倣傚して契丹字の制度によって作り上げた位の程度に止まらないで、郎君行記の文字が此の中の何れの場合に擬した
もの、少し契丹字の制度を認めねばならぬ。郎君行記の文字が此の場合に属するかを明かに定める爲には、
も少し判然としたことを認めねばならぬが、篆誌の文字との間に、それにしても幾か九十條ある郎君行記の文字と、
五百八十餘字中の極めて一部分より明かでなければならぬが、かく迄間(の史を以て契丹字を刻したものと見ても、
考へると、之を以て契丹字の極めて一部分より明かでなければならぬ、強ち照宗はまいないとはいはまい。金史によると完顔希尹の作つ
た女眞字は天輔三年(1119)八月に出来上ったのだが、後に照宗はまいないとはいはまい。天眷元年(1138)に世間
に頒ち、皇統五年(1145)初めて之を用ゐることに成った。かく金では其の國字があったのを小
字といふと見えてゐる。常之が用ゐるべきで、此の點から麟敦及び劉子敬等は女眞の大字と定めた。天會十二年に建てられた
郎君行記には、此の點の碑の女字を見ると、正しく楷書といふことだけで、此の碑の女字を定める譯にはゆかない。
であるから、此の點からして女眞の大字と女眞の大字と断定する譯にはゆかない。しかし此の字の體を見ると、単に天會十二年の設立と
士は、女眞文字の製作せられた後にも、契丹の大小文字は依然公金に行はれたのだから、郎君行記の文字が楷體で
れたものとせられ、また北鎮所蔵の契丹字と断定すると説かれた。前に見た如く、契丹字は漢字の謄楷に倣って作ら
れたものであるから、此の點からして女眞の大字と断定すると説かれた。前に見た如く、郎君行記の文字が楷體で

四二六