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0537 羽田博士史学論文集 : vol.2
羽田博士史学論文集 : vol.2 / Page 537 (Color Image)

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doi: 10.20676/00000267
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何奴と同種族であったと思はる、東胡の一種鮮卑族については、托跋魏に之があったことが見えて居る、卽ち太祖
の登國三年に天神四十所を建て、その祭祀のことは女巫をして行はしめたとあり、また天賜二年に天を祀った時に
も、女巫は深く之を信じ、途にその鳥に籠絡せられながら覺えてあるる。③ 同じく東胡の系統といはる、蠕々も女
奴があって、人の鳥をトひ定めることとなった蒙古についても後に述べるが如く、巫の記事は東西の巫が各樣に履
行ひ、戰争の可否をトひ定めることなど積々彼等の間に存在して見ゆるのである。
 々見て居るが、それが今日迄引き續き彼等の間に存在して見ゆるのである。
 次にトルコ族の巫に關する記述を纏めると、北史高車傳に見ゆるいわゆる女巫などが古いものであろうと思ふ、卽
も此の部族は地震が起るとその住地を棄て、他所に移り去り、來歲秋に肥える頃になると、また相率ゐて其の
地に來るの習慣があったが、その際には抜刀の女巫が敵ひをするというのである。ついには突厥も巫を信
じ、點受祀にも回禮にもあたったことが記されているのである。④ 西紀五六八年に東羅馬
の使者が西突厥に使いして之があったことが記されてゐる。これを貴見、大倉隨記にも「疾病に警藥無し、巫祝を
ッングース族として大勢力を現はし滿
チャスチン二世の命を受けて西突厥に使いしたゼマルコスが、これを貴見、大倉隨記にも「疾病に警藥無し、巫祝を
偏び、病む者ある時は猟狩を殺して以て之を攘ふ」と記してある。⑤ その後ッングース族として大勢力を現はし滿
洲族の間に巫が存したことについては、ここに記述するの必要はあるまい。
 以上記した所は勿論昔の北方民族の北方民族に關する漢史の記載の一小部分であって、精細に拾ひ集むれば、なほ他の
北方民族の間に於ける巫に就いて

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