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0554 羽田博士史学論文集 : vol.2
羽田博士史学論文集 : vol.2 / Page 554 (Color Image)

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doi: 10.20676/00000267
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時代で、互に爭うて突厥と婚姻を結び、僧興を厚くして其の援助を得やうとし、遂に可汗をして「我在南兩兒、常
孝順、何患貧也」(册書実)と豪語せしめた有様であったから、傳へらるゝが如き理由も有もとして、自からを
持する所以かも、當時支那に行はれた佛教をこの部にも迎れたことは、極めて自然のことと思はれるが、然
も其の後何等の發展を見なかったらうと思ふのは、唐の開元年間に當って其の部の默啜可汗が又唐に依って佛
老の廟を起さうとした時に、臣下の牧谷谷之を從ったことが記されて居る(厭傳突)。されば佛老は人をして仁弱ならしむるものも恐らく一時的のものと
いひ、可汗も逢ふ流行のものではなかったらう見るのが、玄奘三藏は即度に向ふ途次、素葉城(今の Chu 河
で、また流行に逢った突厥についてもまた其の流行の記事は存しない。近附の突厥可汗に達たが、其の際突厥の信仰の有様を記して、「突厥事火、不施牀、以木含火、放散而不
居、但地教置面前、仍為法師設一藏炎牀、敷褥副坐」(慈恩傳)といって居るが、何等佛教を信奉したこと
には言及んでゐない。

突厥について漢北の地には回鶻即ち Uighur といふトルコ族が勢を振ったが、後に點受斯的の爲に破られて諸
方に散じ、其の一枝は唐も終に近き靈宗の咸通七年(868)頃から、(868)高昌即ち今の吐魯番にちかき、カラ・ホジャ
(Kara Khōjā)の地に據ることに成った。宋の太平興國七年(982)高昌國の回鶻に使を奉した王延德の紀行に據
ると、高員には佛寺五十餘區あったことが記され、また唐朝給ふ所の寺額及び嚴経音等のあったことも見えて居