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0555 羽田博士史学論文集 : vol.2
羽田博士史学論文集 : vol.2 / Page 555 (Color Image)

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doi: 10.20676/00000267
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る。此の記事を讀むものは、之を以て此の地に漢の高昌壁に基いて居ることから也繁知せらる、通り、古くから漢人の住んだものいが、然し高昌の地はその名が漢の高昌壁に基いて居ることからも繁知せらる、通り、古くから漢人の住んだものも少く無く、其の後漢文化を有し佛教にも關係淺からぬ北涼の沮渠氏の末が移り住み、ついに闞氏が初めて高昌王と稱して以來こゝに王たりしものは皆漢人で、殊に鐵の太和二十一年頃(50)からは麴氏の家が積り、慈悲僧によって推知する宗の時に及んだものでもある。無論こゝには漢人以外トルコ族も居り、その他の地方に住んだのと同種の人民も住んでことが出來る。無論こゝには漢人以外トルコ族も居り、その他の地方に住んだのと同種の人民も住んでるたに遣ひないと思はれるが、王延徳の書いて居る唐代給ふ所は只王延徳の記事を如何に見るべきかにつ陸を指したものと見て過らないであらう。然しながらこゝに達した所は只王延徳の記事を如何に見るべきかについての考を述べたに止り、雍熙元年、當時回鶻に佛教の信仰が行はれなかったとするのではない、延徳の歸國と同時であらうと思ふが、雍熙元年(985)同鶻の可汗は婆羅僧の永世と、ふものを、波斯の外道阿里延と共に回鶻の使として宋に貢賜しめ居る(宋史㈣)。婆羅門僧といふのは宋史と公傳に、即ち乾德三年(965)には西州廻を婆羅門ともいふと記して居ることとして考へても、佛教僧侶と見るべきである。夏にそれより少し以前、凡そ此の數の僧侶が從事したものであるが、次にも述べるがの回鶻可汗が僧法潤を宋に遣して、佛教僧侶と見るべきである。夏にそれより少し以前、凡そ此の數の僧侶が從事したものであるがるくに元教なる摩尼教が盛に行はれたもので、從つて其の國からの使には、常に此の數の僧侶が從事し居ることは周知の事實である。然るに宋の時代になつて、佛教の僧侶もあらわれるに至つた一證と考へられる。如く、元教なる摩尼教が盛に行はれたもので、從つて其の國からの使には、常に此の數の僧侶が從事し居ることは周知の事實である。然るに宋の時代になつて、佛教の僧侶もあらわれるに至つた一證と考へられる。僧が嘗其其の國に重んぜられ、佛教の信ぜらるゝに至つた一證と考へられる。

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