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0571 羽田博士史学論文集 : vol.2
羽田博士史学論文集 : vol.2 / Page 571 (Color Image)

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doi: 10.20676/00000267
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其の語に譯して居たものであつて、こゝにも漢史の記載なるものに過ぎない一例を認めることが出来る。西突
厥が天山の北方は無勢力の事、その南方には勢力を有して居たこととは、唐の太宗の末頃には其の可汗の位に在った
射賞が、唐に公主を尚ふ何の事、これを請うた時に、太宗はそれを勝諾として瘟芸寶疏勒朱供波惡嶺の五國を側かしめよ
うとしたことがあるにてもよく知り得らるゝ事で、突厥人の勝った天山南路の地に居たものも無論少々は突厥人等の間
へ思はれ、前に引いた別失八里の人の譯した経典を初め、其の他多くのトルコ語の佛典は即ち此等の突厥人等の間
に行はれ、而して回鶻は高昌に移った後、時を経るにつれ乃至その時代を唐のものであろうと思
ふ。果して然らば吾々が従来稱して回個交の佛典と稱し、而してその時代を唐のものと認めたものは、更めて突厥
女の佛典と稱しなければならぬと考へる。
突厥回鶻等の間に行はれた佛教が如何なる性質のものであったかを其の残された佛典の上から考察したり、また
回鶻以後トルコ族の間に於ける佛教が如何なる情態に赴いたか等の問題については、別の攻究に譲ることにする。