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0595 羽田博士史学論文集 : vol.2
羽田博士史学論文集 : vol.2 / Page 595 (Color Image)

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doi: 10.20676/00000267
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ペリオ (Pelliot) 氏の中央亜細亜旅行

―敦煌石室遺書發見の次第―

中央亜細亜殊にその東邊タリム (Tarim) 河の盆地は、此頃頓に學者の注意を惹く樣になつて來た、一體此地方は天山、葱嶺、崑崙などの山々で北、西、南の三方を圍まれて、東の一方のみがいはゆる流沙によりて支那本部の方に續いて居る。もとよりその大部分は砂地で、人煙の生活に適しない土地であるが、豊沃なる農耕地があるから、古來住民は定住の生活を續けて居る。けれどもその面積を殆ど砂漠と中央沙磧との間に方に絶えず周圍に擴がつて來るので、古來草豊美の地も、今は全く砂に埋まつて、其地方幾尺の下に埋没せられて居る。由來此地方は昔から主としてトルコ民族等諸強國の主權に支配されるけれども、支那、印度、波斯、西藏及び北方諸民族などの中央に位して居るから、始終此地方を經て交通したからして、從つて古來種々の系統をひいた文化がここに行はれ支那と西方諸國とは昔から全盛を極むるよりも以前既にこの一帶の地は佛教國であつた。大立物の羅什三藏などもここから支那にひつぱられたのであることは誰も知つて居る、東からする支那の文化は勿論のこと、西方の祆教も摩尼教ら支那にひつぱられたのであることは誰も知つて居る、東からする支那の文化は勿論のこと、西方の祆教も摩尼教