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0283 伊犂紀行 : vol.2
伊犂紀行 : vol.2 / Page 283 (Color Image)

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doi: 10.20676/00000279
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特達坂の山路あり。又西して鐵列克達坂を經安集延に至る駄獸路あり。其他數條の山路あれども單に山中に遊牧する土人の交通路に過ぎす。又西してカシミヤを經て印度に通する兩路、一をギルギト道と曰ひ、一は即ち薬爾羌よりカシミヤを經て印度に通する兩路、一をギルギト道と曰ひ、一は即ち薬爾羌より塔什に其の陰難なることを誌中に具載せり。又薬爾羌より塔什庫爾干を經てバダクシャンに到る時代には支那本部より西域に通せし道路二條あり道干の沿革を考ふるに漢の時代には支那本部より西域に通せし道路二條あり
き。一は陽關を出て現海戈壁を經由し羅布泊附近より吐魯番沙庫車を經西行愈嶺に到るものを南道と曰ひ、一は玉門關附近より吐魯番沙庫車を經西行愈嶺に到るものを北道と稱せり。元の時に至り更に現時の北路嗢喀沙爾庫車よりり略什愈嶺に到るものを北道と稱せり。元の時に至り更に現時の北路嗢喀沙爾庫車より略什愈嶺に到るものを北道と稱せり。元の世西域人の蒙古に交通するには赭爾巴什湖三道として漢代の中路と更に東し又蒙古人の西域に到るには赭爾巴什湖齋道として漢代の中路と更に東し又蒙古人の西域に到るには赭爾巴什湖より烏魯古河沿ひ烏魯木齊に出るを常とせり。今の塔爾奇山脈間の山道を時始めて開通し其後伊犂と塔爾巴哈臺とを連絡する鈎め三臺雅瑪間の山道を開きたりと云ふ。明代に至り華喝爾人の天山南路に往來する者就れも那喇特山

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第八章 交 通