“有翼人物像”とスタイン

“有翼人物像”は1907年にスタインが発掘(はっくつ)したミーラン遺跡(いせき)で発見されました。スタインは、この壁画を「翼(つばさ)のある天使(てんし)」として呼んでいます。そのため、この壁画は、”有翼天使像”とも呼ばれます。

ミーラン遺跡でこの壁画を発見したとき、スタインは大変驚きました。なぜなら、その壁画が、ミーランから遠く離れたギリシア・ローマ地域の美術(びじゅつ)の特色(とくしょく)をよく持っていたからです。

仏塔

“有翼人物像”が発見された仏塔(ぶっとう)


スタイン 「発掘が床面およそ1.2メートルのところに達して、 翼のある天使を繊細に描いた腰羽目が壁面に現われてきたときには、さすがに不意を打たれてぼうぜんとしてしまった。内陸アジアの奥地にあるロプ・ノールの荒涼たる岸辺で、このようなギリシア・ローマふうのケルビム(九階級のうちの第二階級に位する天使。翼をもち、童顔であらわす。)の絵に出会おうとは、どうして予想できたであろう!」(『中央アジア踏査記』
 
スタインが考えた“有翼人物像”の秘密(ひみつ)
 

スタインは、この“有翼人物像”(天使像)は、ギリシア神話(しんわ)に出てくる翼を持った青年エロスが形 (かたち)の先祖(せんぞ)だと考えました。

ひみつ

理由のひとつは、この天使像が、西洋の原始キリスト教 (きょう)の教会の天使像に似ているように思えたこと、理由のふたつ目は、ミーランに比較的(ひかくてき)近いガンダーラ地方(ペジャワール周辺)のギリシアふう仏教美術(ぶっきょうびじゅつ)の彫刻(ちょうこく)では、エロス像を模(も)した彫像(ちょうぞう)が見られたため、ミーランにその影響(えいきょう)があっても不思議(ふしぎ)ではない、と考えたのです。

また、スタインはこの仏塔(ぶっとう)の近くで、同じように西洋ふうのデザインで描かれた人物像を見つけています。 ギリシアふう仏教美術は、ミーランまで伝播(でんぱ)していたのです。

 
天使が飛天(ひてん)になった?
 
では、ここで、西洋(ヨーロッパ)から東洋(アジア)の間(あいだ)の色々な天使像を見てみましょう。

インドより東では、翼を持たない飛天(ひてん)が 登場(とうじょう)します。ガンダーラ地方では、翼のある天使の彫刻が残りますが、マトゥーラ地方では、翼を持たず、ショールを翻(ひるがえ)して舞(ま)う飛天が誕生(たんじょう)しています。中央アジアの仏教遺跡には、翼のある形、ショールをまとった形が共に描(えが)かれます。そして、東アジアの仏教遺跡ではショールを翻す飛天だけ、となります。

インドや中国では、その土地にある信仰や形、たとえば、天を舞う精霊の存在と、宗教的意味を持つ飛天が一緒になって、ショールを翻して舞う飛天が主流(しゅりゅう)になるのです。

 
(東洋文庫貴重書(とうようぶんこきちょうしょ)にある、他の天使・飛天像を見てみませんか?
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東西文化の交流

このように、異(こと)なる土地の文化や美術、考え方(かんがえかた)や人ががお互(たが)いに影響(えいきょう)しあうことを、文化交流(ぶんかこうりゅう)といいます。

土地Aの文化がその近くの土地Bでそのまま受け入られる場合、その土地Bにもとからある土着文化(どちゃくぶんか)と一緒になって新しい文化になる場合、受け入れられない場合、などがあります。 そして、その土地Bの文化は、またその近くの土地Cへ、土地Cの文化は土地Dへ、と影響は続いていきます。

“有翼人物像”は、西ヨーロッパのギリシア・ローマの文化(ヘレニズム文化)が、中央アジアの文化(ガンダーラ仏教芸術)に影響を与え、それが東アジアへ伝わった一例(いちれい)です。

 
 
自分でもっと調べよう
 
<本をよむ>
  1. 林良一『シルクロード』美術出版社、1966年
  2. スタイン著、沢崎順之助訳『』(西域中央アジア踏査記探検紀行選集)白水社、2004年
  3. 東京国立博物館・朝日新聞社『大英博物館所蔵「日本・中国美術名品展」図録』、朝日新聞社、1987年
 

<インターネットを見る>

  1. 飛鳥資料館ホームページ『飛天』

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