序言

沙武田 (敦煌研究院文献研究所研究员)

敦煌石窟について、最初に全面的で詳細な調査を行ったのは、1908年にフランス人のポール・ぺリオ(Paul Pelliot 1878-1945)が率いる考察団である。1908年2月25日、ぺリオ考察団は新疆より敦煌に入り、莫高窟に到着してから、先ず石窟のナンバリング・実測図の作成・撮影と文字記録作業を集中して行った。そのなかでぺリオは、主に文字記録と石窟に大量に残る各種題記の抄録を担当し、測量師ルイ・ヴァイヤン(Louis Vaillant)と撮影技師シャルル・ヌエット(Charles Nouette)は、それぞれ実測図の作成と石窟の撮影を行った。調査を行った5月27日までの間、蔵経洞での写経や仏画の検査選出を除き、一貫して石窟に関わる各種の必要な作業に従事した。

ぺリオは、合計182窟の通し番号を付した。その内、171窟までは莫高窟南区の石窟であり、181窟と182窟は北区で、中間の欠番窟は不詳である。莫高窟外観・石窟の塑像・壁画等の写真は、合計368枚撮影され、1922-1924年にパリで、モノクロ写真図録『ポール・ペリオ敦煌石窟図録』全6冊(Les Grottes de Touen-houang: Carnet de notes de Paul Pelliot, inscriptions et peintures murale, I-VI, Paris, 1922-1924)として相次いで出版された。この図録で発表された敦煌の写真資料は、1980年代の中国改革開放以前、即ち莫高窟洞窟図録(『中国石窟・敦煌莫高窟』に代表される)が中国で大量に出版される前にあっては、世界各国の学術研究における主要な石窟塑像と壁画の写真資料となり、世界の敦煌石窟と仏教美術の研究に重大な影響を及ぼし、非常に重要な意義を有していた。敦煌研究院が前後して夥しい数の各種図録を出版している今日にいたってもなお、ペリオ図録は資料が全面的でかつ最初期のものであり、さらに写真の撮影年代からみても依然として学界の重要な参考資料となっている。

特筆すべきことに、ペリオ考察団が撮影を行ってから今日に至るまで百年の時間がたっており、この百年の間に自然や歴史や人為的な原因により石窟には様々な変化が生じ、有るものは甚だしく根本的に変化している。なかには当時は完全であった塑像や壁画が今日では失われてしまい(敦煌編第220窟上層の壁画に代表される)、ペリオ図録の中に思いがけず記録されているものがあり、一層貴重である。その他、石窟の変色、剥落、倒壊など自然の不可抗力による作用は、百年前の写真をもはや再現不可能な歴史記録とならしめている。また、現在の莫高窟の崖表面は保護のため補強されており、やむを得ないこととはいえ、今日では千年余りに渡り受け継がれてきた莫高窟の外観と様相を目にすることが出来ない。しかし、ぺリオ考察団の写真の中には記録されているのである。

こうしたことから、ぺリオ考察団の写真の重要性は言うまでもなく明らかであり、資料の価値と学術的意義はきわめて大きい。

しかし、残念なことに、フランスで出版された『ペリオ敦煌石窟図録』全6冊は、出版時期が早く、冊数も限られ非常に高価であったため、世界各地の図書館に普及するにはいたっていない。私の知る限り、中国国内の大学と研究機関でこの図録を所蔵している図書館はきわめて少なく、個人での所蔵は更に望むべくもない。そのため、閲覧や研究に多大な不便をきたしている。故にこの度、日本の国立情報学研究所が、専門プロジェクトを組織し、日本の東京東洋文庫、中国の敦煌研究院・蘭州大学・甘粛省図書館等の研究機関のメンバーが共同で学術資源を共有しながら、現代のデジタル技術を用いて、ペリオ考察団が百年前に撮影した400枚近い敦煌莫高窟の外観・石窟・壁画・塑像等の写真をデジタル化し、原書の写真を基に専門的な解説文を組み合わせ、日本語・英語・中国語等の多言語形式によりインターネットを介して、世界の愛好家や専門家に無償で提供することになったのは、まこと「巧は当代にあり、利は千秋にあり(現代に貢献し、かつ未来に渡って長く便益を残す)」というべきで、国際敦煌学にとっての慶事また盛事として永く歴史に記録されるに値しよう。