シルクロードに関する多彩なトピックを、貴重書アーカイブの資料を織り交ぜつつ、北京大学・考古文博学院の林梅村教授を中心とするシルクロード研究者に紹介していただきます。

ギリシャの女神から東方の聖母へ-訶理帝母図像のシルクロード上における変化-

張靖敏 (北京大学考古文博学院修士課程)

訶理帝母(かりていも、ハーリティ、Hāritī、鬼子母神 )は仏教美術の中で、物語性の強い女神の一人である。彼女はもとは人間の子供を食べる外道の鬼女であったが、後に仏陀による感化を受けて仏道に帰依し、幼児を守護する慈悲の女神となった。『ブリタニカ大百科事典』によると、「Hāritī 。鬼子母神。日本語では“きしもじん”と称する。仏教神話中の女神であり、元々は子供を食する鬼女であったが、仏陀の感化を受け児童加護の神となった。その像は通常、児童に取り囲まれるか、もしくは嬰児を懐に抱き、手には石榴か花を盛った羊角を持つ姿であらわされる。鬼子母神崇拝は、インドから、中央アジアと中国を経て日本に伝わり、日本では、観音に混同されることもある[1]。」と記されている。”

一、龍女索夫か鬼子母失子縁か

(図 1) (図 2)

20世紀初頭、イギリスの考古学者スタイン(M.A.Stain)は、第一次中央アジア探検の際、ホータンより北90kmの沙漠の中で、ウイグル族の現地民が、「象牙の家」を意味するダンダン・ウィリクと呼ぶ唐代の仏教寺院を発見した。この古代の廃墟はあたかも中世芸術の宝庫のようであり、そこからは1000点を超える仏教芸術作品が出土した。最も注意を引いたのは、ダンダン・ウィリクD.II仏教遺跡(平面図(図 1)/写真(図 2))出土の裸身浴女壁画(図 3)。である。画中には、方形の池で沐浴する一人の女性をあらわす。その女性は全身を露にし、頭部にターバンを巻き、頸部と両腕、腰上に装飾品をつける。右手の細く長い指でみぞおちを軽く押さえ、左腕は曲線を描いて腰に向かって曲げ、4本の小鈴の着いた帯を臀部の周囲に巡らせる。その姿は、インド早期の彫塑芸術にみる舞女に酷似している。浴女は小さな男の子を斜めに見下ろし、池の前面にはさらに騎者のいない一頭の馬と、何人かの人物が描かれている。

(図 3)

スタインは『大唐西域記』に記載された于闐(ホータン)の古代伝説にもとづき、壁画を「龍女索夫」と命名した。「龍女索夫」とは、于闐河の龍女が人間に求婚という伝説である[2]。それによると、于闐城の東南には大河があり、農地の灌漑に用いていた。ところが、ある日河の流れが突然絶えてしまった。聞くところによると、龍女を怒らせてしまったためだという。そこで、国王が河岸に龍を祭る祠(ほこら)を建立すると、龍女がすぐさま波を超えてやってきた。故を問うてみると、彼女の夫は亡くなってしまい心許ない、もし国王が彼女のために夫を選んで結婚させてくれるならば、河川はすぐに流れを取り戻すことができる、という。スタインの説によれば、画中の裸女は于闐河の龍女、彼女の傍らに寄り添う男児は、新しい夫と解釈されることになる。古代仏教絵画では、往々にして神を大きく人間を小さく描くことがあるため、こうした画面上の人物関係は成立しうる。

このスタインの解釈はかなり魅力的ではある。しかしながら、この壁画の前方には独特なスタイルをした一体の神将塑像(図 4)がある。頭部と左腕を破損するが、体には脛当てと鎧、甲、および精緻な装飾品をつけ、足は体を捻った邪鬼を踏んでいる。この姿はまぎれもなく于闐国の守護神―毘沙門天王像である。この天王の光背は、背後の壁に描かれており、よって塑像は壁画と一体となって一つの芸術作品を構成している。ならば壁画の女神は、毘沙門天の眷属の訶理帝母と考えるべきであろう。また、壁画の女神の膝下に裸体の子供が描かれていることもまた、画中の人物が母性神であることを説明している。以上から、この壁画の女神は、訶理帝母である可能性の方が高いと考えられよう。

(図 4) (図 5)

鬼子母神および小児のほか、画中には坐仏と騎士などの人物像(図 5)。がある。これにより、この壁画は恐らく「鬼子母失子因縁」という仏教因縁物語をあらわしたものと考えられる。漢訳仏教経典の中で、この故事は北魏の高僧、吉迦夜(きっかや)と曇曜(どんよう)の共訳『雑宝蔵経』にみられる。すなわち、インドの伝説中によると、鬼子母は子供を食する妖怪であったが、仏祖(釈迦)は彼女を戒めるため、彼女の末子の嬪伽羅(びんから)を托鉢の下に隠した。鬼子母は天下をくまなく探したが見つけ出すことができず、ただ釈迦に助けを求めるより他なかった。そこで釈迦は、「万人ではなく一子を失っただけで、なぜ苦しみ愁うのか。考えてもみよ。お前に一子、あるいは五三子を殺害された世間の人々のことを。」と説いた。鬼子母は我が子を愛する余り、その子を救うため仏道に帰依し、それにより釈迦はその子を返したという。ダンダン・ウィリクの壁画左上角に肩を並べて坐る二人の人物は、まさに釈迦と高弟の迦葉仏であろう。壁画下端の馬に乗る裸体の小児は、鬼子母膝下の裸体の小児と姿が酷似していることから、おそらく嬪伽羅が托鉢の下から開放された後、馬に乗って帰宅するさまをあらわしたものであろう。

この作品は、インドのグプタ芸術の様式を顕著に備えている。女神の優美な裸体はリズム感に富み、律動的なS字曲線を描き、強い視覚インパクトを与えている。インドの古書『キトラスートラ(Chitrasutra、画経)』は人物像を3種に分類し、その中の第3種を「味画」と称している。いわゆる「味(rasa)」とは、感情の効果を指し、人々が絵画を鑑賞する時に体験する美的快感であり、一目で感じ取ることのできる艶情などの「味」のことである。この鬼子母失子縁壁画は明らかに、インドのグプタ芸術における味画の影響を受けているといえよう。

二、源流―キリシアのテュケー女神

仏教芸術では、訶理帝母はしばしば裸体の小児を抱くか、膝下を彼らに取り囲まれる慈母の姿であらわされる(ホータン北方のFARHĀD BĒG-YAILAKI遺跡より発見された訶利帝母壁画(図 6))。例えば、ダンダン・ウィリクの「鬼子母失子因縁」壁画中で、女神の膝下を一人の裸体の小児が取り巻いている。研究者が指摘しているように、この種の図像の源流は、実際にはギリシアの豊穣の女神テュケー(Tyche)[3]にある。

(図 6)

ギリシア神話において、豊穣の女神は本来、運命の女神であった。ギリシアの詩人ヘシオドス(Hesiod、紀元前8世紀)の『神統記』では、彼女を海洋の女神としており、またオケアノスの娘ともみなしているが、彼女をゼウスの后ヘラの娘とみなす伝説もある。古代ギリシアの多くのポリスにおいて、女神テュケーはしばしば都市の守護神とされた。古典作家のパウサニアス(Pausanias、143-176)の『ギリシア案内記』の記載によると、女神テュケーは頭上に城壁冠を戴き、手には「アマルテアの角(Horn of Amalthea)」を持つといい、これがテュケーの標準的な姿である。それゆえ、ギリシア彫刻とコインにあらわされた女神テュケーは、多くが城壁冠を戴く姿をとっている。

紀元1~3世紀、クシャーン人は中央アジアとインド亜大陸にまたがる広大な帝国を建設した。クシャーン王はかなり開放的な宗教政策を実施し、各地の様々な宗教を尊重した。例えば大夏(現アフガニスタン北部とウズベキスタン南部)ではゾロアスター教を崇拝し、ガンダーラ(現パキスタン北部とアフガニスタン南部)では仏教を推進し、インドではバラモン教を尊崇した。そのため、ギリシアの豊穣の女神は、クシャーン王朝のパンテオン(万神殿)では4種の化身として並べ祀られていた。すなわち、大夏の豊穣の女神アルタクス、インドのバラモン教の訶理帝母、ガンダーラ仏教の鬼子母神[4]および大夏芸術のギリシア女神テュケーである。

大夏とガンダーラの塑像中には何例か、手に豊穣の角をもち、膝のあたりを裸体の小児が取り囲んだ、ギリシア様式の女神像がある。したがって、赤子を抱く仏教の聖母訶理帝母の形は、まさに手に豊穣の角を持つギリシア女神より発展したものといえる。

三、中国の「九子母」から日本の「子安神」へ

仏教の伝播に従い、訶理帝母の図像はシルクロードに沿って、西から東へと伝播した。トゥルファン盆地で流行した訶理帝母像はすでに、明らかに中国美術の影響を受けており、中国化、世俗化の過程をたどり始めている。

20世紀初頭、ドイツのトゥルファン探検隊が交河故城(図 7)にある仏教寺院内で多数の仏教絵画を発見した。その中に一幅の子供を抱く女神の麻布画(図 8)があり、まさしく仏教の女神、訶理帝母があらわされていた。画中の女神の顔は漢族の女性にきわめて似ており、華やかに飾られた床机形の座具に坐し、赤子に乳を飲ませている。女神は頭に、内側が白い、朱鷺色の頭巾を被り、鉛丹色の長袖の外衣を足の上まで垂らしている。長衫には刺繍の襟があり、前身ごろや袖口、裾にもすべて刺繍の縁飾りを施す。足には明らかに中国式の刺繍靴を履いている。女神の周囲には、色白で丸々と肥え太った8人の子供が遊んでいる。子供は腰のまわりに布を巻いているだけで裸に近く、頭頂のみ髪を残して剃りあげるという典型的な漢式の子供の髪型をしている。

(図 7) (図 8)

ほかに、四川の巴中石窟にも類似の訶理帝母像がある。例えば、巴中68号石窟龕前の浮彫にあらわされた女性は、頭髪をくしけずり円形の髷を結い、長い裙(スカート)を着けて胡坐をかき、懐に一人の子供を抱え、左右にはそれぞれ4人の子供が坐っている。明らかに、この女神は子供を加護する鬼子母神としてあらわされているが、その表現は多子多福を願う世俗的な慈母の姿であって、鬼神としての姿は全くみられず、すでに完全に世俗化している。

このような、女神の周りを9人の子供が取り巻く図像は、中国の民間宗教中の九子母像に由来する。九子母の文献上の初見は『楚辞』天問篇で、文中に「女岐合うことなし。それいずくんぞ九子をとらんや(女岐无合。夫焉取九子)。」と記されている。清の丁晏箋の注には、「女岐。あるいは九子母と称す(女岐。或称九子母)。」とある。後漢時代、鬼子母神信仰は仏教に伴って中国内地に伝わり、その多子の特徴が中国伝統文化の九子母と図らずも一致していたことから、融合し一体化したのであろう。

中国古代の書画には鬼子母神図が少なくない。『宣和画譜』には、「周昉絵九子母図三」が記載されている。唐代の画師、周昉(しゅうぼう)は仕女を描くことに長じ、彼の筆になる唐朝の女性は、その多くが体型はふくよか(体態豊肥)で、面貌はなごやか(面容祥和)、ゆったりとした気品が漂い(雍容華貴)、「周家様」と称されたという。残念ながら、画史に記される唐代の鬼子母神の彫刻や絵画は現存していないが、巴中石窟の九子鬼子母神浮彫は、穏やかな面貌、ふくよかでゆったりした姿にあらわされており、「周家様」に属するとみてよいのではないだろうか。

北宋時代、懐に嬰児を抱くこの種の訶理帝母像は、中国民間宗教における新しい神―送子観音と何らかの形で融合したらしく、朝鮮半島と日本の民間宗教に大きな影響を与えている。日本では、鬼子母神は「子安観音」あるいは「子安神」と称され、妊娠中の加護や安産のために祭られる子供の守護神である。子安神崇拝は日本の古典芸術に深い影響を与え、元亀二年(1571)長谷川信春の絹画「鬼子母神十羅刹女像」や江戸時代の「鬼子母図巻」など、多くの鬼子母神像や子安神像の書画が伝わっている。

スイスの美術史家ハインリヒ・ヴェルフリン(Heinrich Wölfflin)は古い歴史をもつ東方芸術を高く評価している。彼はかつて人から、アメリカに行って美術のコレクションを見たくないかと尋ねられたところ、「それが何の益になるのか。アメリカはヨーロッパ芸術の加速的な複製以外の何ものでもない。しかし、インドと日本は神秘的な所であり、少なくとも人々に新しい概念や新しい思想を与えてくれる[5]。」と答えたという。以上から、インドのハーリティがいかにしてギリシアの女神から仏教の聖母に転じ、さらには中国内地と日本列島へ伝わり、終に一柱の母性神へ変じたかを、容易に見てとることができよう。訶理帝母像の発展と変遷は、シルクロードの宗教と芸術の交流を研究する我々にとって、実に生き生きとした実例を提供してくれるのである。

[1] The New Encyclopadia Britannica, vol. 32, USA: Encyclopadia Britannica, Inc. 1998。中国語版:不列顛百科全書編輯部編訳『不列顛百科全書』第7巻、北京、中国大百科全書出版社、2002年、455頁。
[2] M.A. Stein, Ancient Khotan, London, 1907, p.254。この壁画の描き起こし図は、賈応逸、祁小山著『印度到中国新疆的佛教芸術』(蘭州、甘粛教育出版社、2002年、196頁)に収録。
[3] E. Errington and J. Cribb, The Crossroads of Asia, Transformation in Image and Symbol in the Art of Ancient Afghanistan and Pakistan, Cambridge: The Ancient India and Iran Trust, 1992, p.143.参照。
[4] E. Errington and J. Cribb, The Crossroads of Asia, Transformation in Image and Symbol in the Art of Ancient Afghanistan and Pakistan, Cambridge: The Ancient India and Iran Trust, 1992, p.135.参照。
[5] 范景中編、傅新生・李本正訳『美術史的形状:従瓦薩里到20世紀20年代』、杭州、中国美術学院出版社、2003年、213-214頁。
2006年08月01日 発行
翻訳: 田中 裕子
編集: 大西 磨希子

目次

執筆者

1982年山東省青島生まれ。2001年北京大学考古文博学院入学、同時に北京大学芸術系を併修し、考古系と芸術系の両学位を取得。卒業論文は『ギリシアの女神から東方の聖母へ-訶理帝母(かりていも)図像のシルクロード上における発展と変化-』。現在、北京大学修士課程に在籍し、于闐における漢魏時代の芸術を研究している。 [ もっと詳しく... ]

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